佐伯千仭先生の死

2006年9月3日

佐伯先生が98才でなくなったとの訃報が昨日新聞に掲載されていた。この先生の名前とともにおもしろいエピソードを思い出す。佐伯先生は、弁護士でありかつ立命館大学の刑法の教授であった。今から35年ぐらい前の話になるが処罰の拡大、刑罰の重罰化と保安処分導入を内容とした刑法改正が検討されていたときの法制審議会の委員を佐伯先生がなされていた。この改正の中身は正に警察国家となりかねない危険があると日弁連はこの改正案に強く反対していた。法制審議会では佐伯先生も日弁連と同様の意見であり、審議会で充分に審議をするよう主張していた。しかし、審議会ではいまでもほとんどの審議会がそうであるように実質的な審理をしようとせず、簡単にまとめあげようと作業を急いだ。そうした対応に佐伯先生は、これ以上審議会に留まって意見をいっても無駄であると考え「この審議会では私は少数派かもしれないが、一歩外にでれば多くの国民は反対である。国民の力によってこの法案はとうさせない」と席を蹴って退席した。rnrnこの事件があっていらい日弁連は、全国各地での刑法改正反対の街頭宣伝活動、裁判劇などの集会、ビラまきなどというそれまで弁護士会としてやったことのなかった直接国民に訴える活動を行った。弁護士会が積極的に市民の中にはいっていくようになった始まりの出来事であったといえる。こうしたうねりの中で、1975年2月、岡山でも刑法改正阻止県民集会を岡山弁護士会主催で開催した。法制審議会での審理の状況について佐伯先生に報告してもらい、メイン講師として作家の野坂昭如さんを呼んでの講演会である。野坂さんといえば当時は直木賞作家としてあるいは大人向けの深夜テレビ番組のゲストなどによくでていた売れっ子作家あるいは芸能人の一人であった。また、いつもアルコールが抜けることがないような人とのうわさがあった。私はまだ弁護士になって1年目の若造であり、この集会では宣伝カーを当番で回したり、集会当日は司会者と集会責任者との連絡役を言いつけられていた。まずは佐伯先生からの報告が始まった。しかし、野坂さんは到着しないのである。舞台裏では氷とウイスキーが準備されていて、いつでも野坂さんの要望にこたえられるようにしていたのである。しかし、いつまでたっても野坂さんは到着しない。集まった約800名の人は野坂さん目当ての人も多かったはずである。やがて、弁護士会の執行部の人たちが集まって皆さんに土下座でもして謝罪しなければならないかなどと話が出始めていた。私のところには佐伯先生に話を延ばしてもらうよう伝言をする指示がでた。伝言の紙を渡すと先生は戸惑いながらもなんとなく長い話になるような展開になってきた。そうしているとドキュメント番組で野坂さんを追っていたテレビ局の人が「岡山にはきていますよ。さっきまで一緒でした」とのこと、そして野坂さんの講演が始まる予定時刻には野坂さんはきちんと会場に姿を見せたのである。すぐに佐伯先生には話をまとめてくださいとの伝言をし、無事野坂さんの講演が始まったのである。今では最長老ともいうべき方が野坂さんの水割り準備係りであったり、また私は文字通り下足番が役割であった。数年後、私は日弁連刑法改正阻止実行委員会の委員に選任され、同委員会の副委員長としてこの問題に関わることができ、激しい法務省との交渉や運動の企画などこの委員会の活動を通じて素晴らしい弁護士たちとの出会いがあった貴重な経験となった。rnrn野坂さんの講演は、卑わいな言葉や放送禁止用語が飛び交い、正に野坂節ではあったが、岡山のことも下調べをしてきていた。三木記念ホールでの集会であったが、水島コンビナートによる公害問題発生の責任者である三木知事を記念してのホールでの講演であることをまず指摘していたことを思い出す。こうして無事にそして岡山弁護士会として外部を対象に初めての集会を成功裡に終えることができたのである。これを契機に、様々な集会が弁護士会主催でなされるようになった。5月には毎年弁護士会主催で憲法記念集会が開催され、秋には連続県民法律講座が開催されることは恒例となっている。刑法改正問題も、日弁連が主張していたとおりの内容で決着をみることができた。法制審議会の答申がなされていたにも関わらず、それが法案として成立しないという例のない結末であったが、形式だけの審議会の結論よりも、弁護士会の活発な活動によって真の民意を反映することのできた貴重な体験であった。

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