裁判員裁判の話

2009年10月20日

昨日は,某キリスト教会の方々の依頼を受けて裁判員裁判の話をさせていただいた。裁判員裁判の具体的な日程がはいって,詳しい報道がなされていると否が応でも刑事裁判に関心を引き寄せられている。裁判のありかた,司法に関して今ほど大きな関心の目が注がれたことはないだろう。市民の感覚で司法が外部の目にさらされることは,「官僚司法」の変革の動きをつくりあげていくきっかけになっていくかもしれない。

今回,クリスチャンが裁判員制度について法律家の話をききたいと思ったのは裁いてはならないとの聖書のイエスの言葉の記述があることから,裁判とこの裁きとの関係を理解したいと思ったことがそのきっかけとなっていたようである。この話の依頼を受けて話すべきことをまとめていたときに,学生時代の刑法総論の講義の時のことが思い出された。法学がなぜ社会「科学」なのだろうか,法はなんらかの真理を表しているものなのだろうかなどという今から思えばなんとも純真な疑問を抱いていた。その時に新派刑法学の権威であった木村亀二先生に質問したのである。どんな質問だったかそれは良く覚えていないのであるが,その回答は「人間は神ではなく不完全である。その不完全な人間が社会を形成していくためには法が必要である。」というこれまた単純な内容であった。その時は,その言葉を聞いたということであり,理解できたという気持ちにはなれなかった。今,法律学の実務の分野で長い間,仕事をしてきた経験をえて,学生の時に聞いた木村先生の言葉の意味が理解できたように思えた。

きょうの一番は,岡山家庭裁判所で遺産分割調停事件であった。家庭裁判所の関係は庁舎の5階に集中している。最近,この5階にくることが多い。離婚,財産分与,親権,遺産分割事件と家庭裁判所事件でこの階に良く来る。待合室にいる人は若い女性であったり,年寄りを囲む兄弟であったり,様々なドラマがかいま見られる。私の事件も,別居中の妻の死亡に伴う子と夫との遺産分割調停事件であった。一人の死によって,関係者の抱えてきた問題が一挙に表面化し,精算を強いられるのである。悲しくもあり,感情を捨象して原則通りに当てはめを行うことによって,それぞれが新しい出発となる可能性も秘めている。不完全な人間が,一つのルールによって,それでも新しい出発へと準備をしているときと前向きに考えるべきであろう。

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