病気腎移植の是非

2010年6月13日

昨夜は,当会会員で病気腎移植を受けている人からその是非の論争の問題点について話してもらった。彼は,透析患者であった。当初,東京で仕事をしていたが,透析を受ける中では十分な仕事もできず,ふるさとである岡山に帰ってきた。その当時,顔色はどす黒く,夜の会合にも出席できない状況であった。透析患者の生活が過酷なものであることは,なんとなく伝わってはきていた。そして,妻からの生体腎移植をしたが,拒否反応がおこり失敗に終わった。たぶん,そのとき彼はすべてに失望のどん底にあったのではないかと思われる。そして,その後になされた病気腎移植手術の是非が裁判として争われることになる。その手術は成功した。いまでは,彼の顔色は普通の人と変わらない健康色である。こうして夜の会議にも出席して頂いて,あとではアルコールのはいることもオーケーなのである。かつて重大犯罪に関して無罪判決を勝ち取ったそのころの強さを20年近くの経過を得て取り戻した。

この手術については,その是非の論争が激しくなされている。学会を含め大方の議論は,この手術は認められないというものである。透析患者さんからの意見は表だって聞こえてこない。透析患者1名に対して医療機関は年間約500万円の医療費が支払われるようである。この患者をきちんと確保するルートがあるか否かは透析を行う病院経営の大きな問題であるとのこと。そして,医療機関における学閥などの封建体制などいろいろのことがこの問題の背景にあると言われている。いろいろな考えがある。この手術を簡単に認めることの弊害も考えられる。しかし,彼がこうして見違えるように元気を取り戻し,現に貴重な活動をしている姿をみるとそれだけで彼の意見に何の反論もできなくなる。臓器移植の常に抱える問題がここでも起きてくる。彼の姿を見て,すべてを一般化できるか否か冷静に考えてみたいとは思うものの,その結論は容易に見いだせそうにない。

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