問われているのは検察そのもの

2010年10月20日

今回の大阪特捜部主任検事の逮捕,起訴事件は,前にも指摘したが,単に大阪地検特捜部の問題ではなく,検察そのものが問われている事件である。特捜検事が特捜部の方針に従って捜査をし,起訴にあたっては地検次席,地検検事正が決済をしている。公判になれば公判の維持については公判部が担当する。まずは,何がなんでも有罪に追い込むための証拠収集がなされ,そのための証拠がセレクトされる。起訴の判断のときにこの証拠の吟味がなされる。そのことを前提に決済がなされ,公判部において,有罪を確保すべく,立証活動がなされる。検察庁の当然とされている役割をはたすべく,組織全体として取り組まれているのである。検察に不利な証拠隠滅が捜査の段階でなされているのであるから,それから以後の検察手続き全体のなかでこの不祥事がおきたことになる。

有罪率は99,9パーセントと言われている。起訴した以上は確実に有罪をとらなければならないというプレッシャーがまずある。無罪判決でもとろうものなら,関係した検事の将来はなくなる。大きなマイナス評価である。また,事件とする以上は,自白調書をとるのは基本である。否認のままの調書であることは,取調検事の恥とされる。自白偏重は当然という世界である。そこで,虚偽自白調書が生まれ,えん罪が生まれる背景がここにある。

自白調書という証拠の王様の捏造の誘惑が常にある。さらにどうしても有罪をとらなければならないという圧力から被告人に有利な証拠が隠され,不利な証拠が捏造されるということに誘導されやすい力が働いている。これらは検察の陥りやすい誘惑であり,常にこの誘惑と戦いながらの仕事が検察の本質である。そうであれば,最高検が大阪地検特捜部を裁こうとしているが,実は検察庁そのものが裁かれていることに気づくべきである。こうした不祥事を避けるためには,どのような制度を導入すべきなのか,そうした視点からの検討が必要である。捜査の可視化の早急な実現は,検察自身の横暴を押さえるためにも意味のあるものとなると思われる。

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