裁判員裁判

2011年3月8日

2009年5月から施行された裁判員裁判。それなりに定着しつつあると思われる。私の周辺にも裁判員に選任された方がいる。裁判員としての負担の大きさを指摘しながらも,参加した自分自身も社会のことを考える良い機会となったことの感想を述べられていた。先日の報道では,一定の犯罪について従来よりも重くなる傾向があることが指摘されていた。これを,裁判員裁判の否定的な評価と捉えるべきではない。今までの法律家の世界での判断が社会の常識から離れていたというべきかもしれないのだ。裁判員裁判のなかでの被害者参加制度のやりかたによっては,裁判の場が仇討ち的な場面になりかねない危険もある。しかし,それらのことに十分に配慮されて運用されていくなら,思ったほどの弊害は無いようにも思える。

近く,地元の演劇集団を中心として「怒れる12人の男」が上演される。岡山弁護士会も後援している催しである。この時の「陪審」について解説文の依頼を受けた。800字程度にまとめるのだから,骨の部分しか書く余裕がなかった。しかし,これを書くにあたって改めて手持ちの資料を読み直したりした。そんななかで,日弁連として陪審の実現を目指して古くから運動をしていたことを思い出した。免田事件で死刑台からの生還を果たしたその日の集会にでていたこと,このような衝撃的な事実からも陪審が必要であると叫んでもどうしても陪審制度の実現として動きはなかったこと,しかし,2004年には司法改革の大きな流れのなかで裁判員制度として実現したことなどである。2004年は,日弁連の理事を担当していたときである。裁判員裁判は,陪審ではなかったが,市民の参加する裁判制度として大きな期待のなかで実現したのだ。さらに陪審の実現に向けて運動が進められなければならない。

陪審は,アメリカでは憲法にも保障された権利である。アメリカが植民地時代に裁判官,検察官は英国人であったが,陪審員だけは地元のアメリカ人から選任されていた。陪審は,不当な本国からの支配を拒否する大きな力となっていたのである。まさに民主主義を実現する大きな力であったのである。日本でも大正デモクラシーが大きな潮流となったときに,構想され,昭和初期の一時期に陪審がなされた。しかし,戦争の足音が高まる中で,民主主義が消えていくなかで停止された。

裁判員裁判は,こうして熱い期待のなかで生まれた。その熱気を忘れてはならないと思う。

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