宇高連絡船

2006年7月25日

高松高裁の事件があり、マリンライナーに乗って高松にでかけた。瀬戸内海を一気に走り抜ける鉄道はいつみてもすごい。海にコンクリトーの大きな工作物が林立し、そこにかかった橋を鉄道がとおり、その上はさらに高速道となっているのだ。豪快である。穏やかな多島美の瀬戸内海には似つかわしくないかもしれない。高速道をとおれば、橋の美しさがよく見える。斜張橋と言われる橋で、鶴が羽を広げたような優雅さがある。rnrn高松について改札口に向かう正面に「連絡船うどん」がある。連絡船が運航されていたころ、連絡船の後部デッキにうどんの販売店があり、運航時間約1時間の連絡船にのってこれを食べるのが楽しみであった。特にうまいものでは無かったはずであるが、デッキの風にあたり、海をみながらの開放感に誘われていた。小学校にあがったばかりのころの夏休み、母が夏の思い出にと(たぶん絵日記の材料)屋島に連れて行ってくれたことを思い出した。当時、連絡船に乗って屋島にいくことは今では東京に出かけることよりもすごいことではなかったろうか。屋島にケーブルカーで登って、鳥の形をした水笛を買ってもらってそれをふきながら歩いた。下には一面に塩田の風景があったように思う。屋島の風景写真のある写真館で写真をとり、帰った。連絡船に乗り遅れないようにと改札口から船まで長い距離を走った。rnrn連絡船と言えば。紫雲丸の事故を思い出す。小学校のころのできごとであった。修学旅行の生徒たちが乗っていた連絡船が霧のなかで事故を起こし、沈没して多くの犠牲者を生んだのである。この事故が瀬戸大橋を建設する大きな動機となったといってよい。事故があった当時ひとつのエピソードを聞いた。その船には充分な救命具が揃っていなかったようで、救命具のない生徒がおぼれかかっていたときに年のいった人が自分の救命具をはずし、その若い生徒に渡し、その人は沈んでいった。事故後にその生徒がその人を探していたところ、穏やかな表情で遺体としておかれているのを発見したという話だ。その人は、牧師さんかクリスチャンであったという記憶である。rnrnゴーッと音をたてて瞬く間に通り過ぎる海の上であるが、多くのドラマ、思い出を生んできた連絡船のことをふと思いだした。高松についてからは連絡船うどんではなくいまはやりのセルフのさぬきうどんを賞味した。

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