私的死刑廃止論

2006年6月22日

山口県母子殺害事件に関し、最高裁は無期懲役の原判決を破棄し、広島高裁に差し戻した。広島高裁での判決は死刑となる見込みである。昨日からこのニュースが大きく取り上げられ、一様に死刑が当然であるとの見解が伝えられている。しかし、世界の潮流は死刑廃止の方向にあるその考えが紹介されない、感情的議論に終始する危うさを感じる。rnrn憲法では残虐な刑を禁じている。私は、死刑ほど残虐な刑はないと思っている。最高裁は、かつて「人の命は全地球の重さよりも重い」という名文句で始まる判決で死刑は合憲であると判断している。死刑待機者にはいつ死刑が執行されるかもしれない日々を過ごしていく過酷な長期間の時がある。拘置所のなかで毎日刑務官の足音に耳を澄ませ、房の前を通り過ぎる瞬間を心臓が止まるような緊張感で迎えている。こうした待遇を考えてもこれほど残虐な刑はないと確信する。rnrn私たちは、多くの人との人権の関わりのなかで生きていて、その個々の人権を調整をするために社会を形成し、互いの権利を制約しあって生きていて、その制約できる権限を国家にゆだねている(社会契約論)。しかし、命までも制約してよい権限は与えていないはずである。命を失えば既に他人との関わりで生きていく社会そのものがなくなっているからだ。rnrn誤判の取り返しがつかない。例え現行犯逮捕であり、その人の犯行であることが間違いないとしても、死刑を選択するに至った事情については依然として誤判のおそれがあるからだ。反省の情がみられないとして死刑を選択したとしても、たの事情で反省の情ありと判断されることもあり、誤判のおそれは情状においてもあるのである。rnrn刑は、教育刑であることが本質であると思っている。死には死をもって償えというのは、応報の極地である。最近、被害者の権利が論じられるとき、この応報の観点が強調され過ぎているきらいがある。被害者の権利も考えられなければならないが、そのことの本質が応報であるとすれば、人間はなんと残虐なのかと思う。地球に生きる唯一理性的な動物として応報の極地である死刑を避けなければならない。他人の死を望むという憎しみの感情を社会的に克服し、理性的でやさしい社会システムを求めるべきであると思う。rnrn世界の先進国はほとんどの国で死刑が廃止あるいは停止されている状況にある。被害者の家族の方の苦しみを理解し共感しながら、なおも死刑廃止の道を感情を克服して実現したいものである。今回の被告人が死刑の宣告を受けながらも人間性の回復をし、人として生を受けた喜びの時を一瞬でも感じることができることを祈っている。

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