裁判官の自殺

2006年12月10日

本日、ベルリン、フランクフルト、成田、羽田と乗り継いで約24時間かかって無事帰宅した。出国する前に住基ネットを情報の提供を欲しない人に強制することは違法であると判断した裁判官が自殺した襲撃的なニュースを聞いた。このニュースがどのようにその後経過をただっているかは全く私には今は情報がないが、旅の間にも気になっていた。rnrn裁判官は基本的には孤独な職業である。憲法秩序のなかで良心に基づいてのみ判断しなければならず、他の人の指示をうけるなどの影響を受けることがあってはならない。この裁判官も結果の持つ影響の大きさに十分に悩みながらその決断をしたに違いない。そうした職業的特質から日本の裁判官は我々弁護士らとの交流でさえ自重している。確かに良心にのみに基づいて決断が下されるべきではあるが、常に他の人との交流を制限する方向に向かえば裁判官の唯我独尊の判断となっていく虞がある。良心に基づいて裁判をするには、その「良心」を健全なものに育てていかなければならない。そのために裁判官にも思想、信条の自由が認められ、集会、結社の自由も普通の人と同様に当たり前に保障されるべきである思う。例えば自由に一定の問題について研究会に参加できて意見を表明する自由があったり、集会で自由に発言すできる自由があってよい。そうした活動のなかで、健全な「良心」が育っていく。日本の場合は極端にこうした活動が嫌われ、制限されている。今回裁判官も自由に例えば住基ネットの問題点について考える研究会に参加し、意見交換する機会があったなら問題点を深めることできたであろう。精神的にはずっと楽に考えることができたはずである。一人で悩み、研究しながらこうして深みのある判決にいたるには大変な大きな負担であったと思う。死を選ぶような精神状況となってもおかしくはない。rnrn日本と同じような裁判官制度を持つドイツでは、裁判官は全く一般人と同じように集会、団結、結社の自由が保障されていて、いくつも法律家団体の研究会に参加したり、なかには反原発運動などの住民運動にも参加している裁判官もいるとのことである。憲法で保障されている基本的人権を裁判官自身に保障されてはじめてその大切さも理解される。隔離される裁判官からは決して良い裁判は生まれない。rnrnこうした日本の裁判官の孤独は家庭生活も異常なものとする。裁判官はいつも風呂敷を抱えて裁判記録を持ち帰り、家で調べ物をしたり、仕事をする。家に帰ってもあまり妻と話をすることなく書斎にこもってしまい、几帳面な裁判官ほど家族との会話が無く、仕事に没頭する結果家庭においても孤立した状況となることもある。自殺した裁判官も夕方7時に書斎にはいり、妻がその死を知ったのは翌日午前9時頃であったというのであるから、そのことから裁判官の生活スタイルが読みとれる。さらに、行政の適法性を判断することは裁判官に途方もない圧力をかける。日本の憲法違反とする最高裁判決は戦後60年を経過しても10本の指で数えられるほどしかない。地裁レベルでそのような内容の判決を出すには相当の勇気を要する。裁判官への人事などを通じた無言の圧力が強いからである。こうしたプレッシャーが裁判官を死に追いやったのではないかと考えた。rnrn今日はもう疲れた。旅の思い出もこれから少しづつ書いていきたいが、とりあえず気になっていたことを書いた。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

Links

Calendar

  • 2024年7月
    « 5月    
    1234567
    891011121314
    15161718192021
    22232425262728
    293031