2日の夜に長女,次女が,3日の午前中に長男が帰ってきた。午後から両親を加えて総勢7名で近くの温泉地に宿泊にでかけた。子どもたちがそれぞれ独立してしまうとこれだけが一緒になるということは久しぶりのことである。温泉で一泊をすごし,4日の午後には帰ってきた。仕事は完全に休業であった。
24年前,両親の還暦の祝いに私たち家族と妹の家族で児島のホテルで宿泊した。こうして,私が還暦を迎えるときにかつてこうして還暦を祝った両親とともに祝えることは不思議な感覚である。両親が元気で,子どもたちがそれぞれに独立していてわがままに過ごせる我々夫婦にとってもとても幸せなことである。宿泊したホテルはなじみのあるところで,夕食には特別の部屋が準備されていて還暦の例の赤い帽子やらちゃんちゃんこなどが用意され,子どもたちからはおしゃれな赤いセーターのプレゼント,バースディケーキも用意されていてこんな時間をもらっていいのだろうかと思うぐらい感激した。
夕食時になると両親からはいろいろと思い出話が始まったが,この年代はやはり戦争の話につながる。母は,学徒動員で今のチボリ公園のところにあった倉敷紡績の工場で飛行機の補助翼をつくる錨うち作業をしていたとのことである。お国のために飛行機がつくれると誇りにして作業をしていたこと,沖縄からも動員されてきていたこと,その沖縄からの船も魚雷の被害を受けて途中で沈没した船もあったことなどが話された。父は当時,水島にあった飛行機の本体を作る工場などの生産ラインを管理する部署にいたようで1万数千人いた学徒の運送などにも関与していたようであった。戦後生まれである私はもちろん知らない話ではあるが,考えてみればわずか60年前の話でもある。その戦争のまっただ中にいる国もたくさんあり,戦争しかしらない国の子どもたちもいるはずである。
私的にこんなにいい時間を過ごさせていただいた。しかし,憲法をめぐる状況は,ここ数日の新聞を見るだけでもこわいような話がどんどんでてくる。残された戦争体験時代の人々の歴史的体験を改憲を叫ぶ今の政治家はどのように受け止めてきているのだろうか,体験していない私たちはどのように平和への道筋を示していけるのだろうか。