私は,ジェットコースターが嫌いである。いや,怖いのである。まだ子どもたちが小さいころ,一度だけディズニーランドでスペースマウンテンとかというジェットコースターにのったことがあるだけである。あれほど怖い思いをしたことがない。乗っている間中,乗ったことを悔やみ続けていた。
ジェットコースターは,絶対安全であることが前提で,擬似的な恐怖感を味わうのである。私は,こういうものに乗るとどうも心配症のようなところがあり,レールから車輪がはずれたらどうなるだろうかとか,カーブを曲がりきれないでそのまままっすぐに飛んでいったらどうしようかなどと考えてしまうのである。しかし,その絶対安全であるという前提そのものが崩れて,本当にレールからはずれてしまう事故がおきた。擬似的な恐怖感の体験ではなく,まさに本物の恐怖を味わうことになったのである。皮肉であるが,これほど怖い乗り物はなくなった。
絶対安全でなければならないものが少しも安心できない事故が続いている。エレベーターのロープがこともあろうに日本の繁栄の象徴ともいうべき高層ビルのなかで錆だらけで破損していた。飛行機が次々と不具合を起こし,胴体着陸となった。原発の単なるデーター隠しどころか臨界状況直前までになってしまうような不気味な事故が続いている。しかも人形峠では長期にわたりダクトの破損に気づいていなかった事実も明らかとなった。いずれも人命に関わる重大な事故につながりかねない出来事である。安全に関する感覚の麻痺だろうか。危険に関する認識の欠如なのだろうか。
かつて「車はどんなスピードで走っても危険である」とラルフネーダーは指摘し,製造物責任の考えを定着させた。システムとして完成度の高い車は,いつまでも事故を発生させ続け,多くの死者を発生させている。今日も高速道路でトラック運転手が脇見をしていてワンボックスカーに衝突し,死者を出したというニュースが流れていた。どんなに完成度が高いシステムであってもそれを扱うのは人である。人は常に完全ではありえない。その隙間で悲惨な事故となる。危険な事故がどんな場面でも起こりうることを予測した危険回避のシステムづくりが必要である。私も,車の運転は十分に注意をしながら,そして70歳の誕生日を迎えるまでには完全に止めなければと決意している。