刑事裁判は,被告人を糾弾する劇場?

2007年6月9日

交通事故で祖父と孫を死亡させたという事件の第1回公判期日であった。

法廷には被害者家族の人が並ぶ。
所定の冒頭手続きからはいる。検察官請求の証拠にはすべて同意した。その証拠の要旨の告知がなされる。ところがである。要旨の告知が次々となされてきたが,被害者家族の調書となると全文を時間をかけて検察官は読み出した。いかに悲惨であるか,被告人を許せない気持ちか,被告人に対する憎しみを細かく読み上げていった。裁判の法廷を憎しみによる糺弾する劇場であるかのように演出がなされる。被告人側は人を死に至らしめたという落ち度から何も反論することができない。どうしてこのような法廷が許されるのだろうか。被害にあって憎しみを持たない家族はいない。悲しみは当たり前である。冷静な刑事責任を適正な手続きで求めていくという刑事裁判の本質がゆがめられた手続きとなってしまっている。今回は,被害者家族の上申書という形で「求刑」までがなされている。これは検察官の悪のりではないかと思わされた。現在こうしたことを被害者の権利として認めようという問題法案が国会にかかっている。こうした審議の進められているなかでこれを先取りしているのである。

いつしか,日本の刑事裁判はヒステリックなものとなってきたのか。被害者の権利と言っている真の意味は何か。いやされぬその気持ちを被告人の苦痛によって癒そうとしているのだろうか。そうだとすればそのことによってはいつまでたっても癒されることはないだろう。どんなに更正していても,ジャンバルジャンはいつまでもジェラード警部の追跡を受けて命を失わせなければ納得しないのだろうか。今日の法廷には異常なものを感じた。

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