「ある陪審員の4日間」

2007年8月4日

実際にニューヨークの裁判所で陪審員に選任されてから,有罪か無罪かを評議に至るまでの4日間の記録である。選任された他の陪審員の性格,職業なども細かく描写されている。日本でも2年後には裁判員制度が実施される。日本の場合は3人の裁判官と6人の裁判員が一体となって審理し、量刑を含めた判決まで関わる。陪審制度は有罪無罪に関しては陪審員だけによって審理される。裁判官は一定の手続きで法的なアドバイスをするだけである。量刑は裁判官が決めることになる。陪審制度と参審制度との妥協の産物であるという宿命と考えるべきであろうか。

アメリカのような陪審制度が当然といえる風土のなかでも,陪審員になることはやはり大変な精神的な負担を感じるようである。そして,倫理的に悪い人に対して無罪を言い渡してしまう結果についてはやはり抵抗感を持つことがあるようである。つまり「疑わしくは被告人の利益に」「合理的な疑いを入れない程度の立証」の原則を貫くことへの不安感を陪審員たちは感じている。しかし,そのことの持つ意味を評議のなかで裁判官のアドバイスを受けたりする中で理解していき,最後には無罪の評決に至るというストーリーである。「裁き」をするのは真実を知る神のみであり、裁判は一定のルールのなかで社会での責任を明らかにする手続に過ぎないが、裁きの権限を与えられているかのような錯覚に陥りやすい。評決に至る4日間,完全に隔離されたなかでの評議の進行はまさにドラマである。一人一人の人生のぶつかり合いでもある。評議を終えたときの開放感と喜びの様子が読者にも伝わってくる。これから日本の裁判員裁判においてもこうしたドラマが繰り返されていくことになるのだろうか。

現在,裁判員制度の実施に向けて,法曹関係者で模擬裁判を繰り返しながら,制度を理解し,実際の法廷を使って現実の流れと同じ手続で、裁判員裁判に慣れるための実地訓練を繰り返している。実際の裁判と同じように一定に設定された事案を元に手続きを進めていくのである。裁判員には法律専門家ではない人が参加し,実際に評議していく。今までの模擬裁判のなかで見えてきたことは,担当する裁判長の采配の取り方でずいぶんと評議のあり方に違いが出てくるということである。裁判長が裁判なんか素人が口をだすものではないという心情の持ち主か,裁判員制度は社会的常識を司法の場で生かしていくことによってえん罪を防ぐものであるという問題意識をもった裁判長か,によってその評議が根本的に異なる状況になっている。もともとプロの裁判官によってなされていた裁判自体にえん罪やら,死刑再審事件で無罪となる事件の存在の反省のもとで生まれた制度であることがいつのまにか忘れられているような気がする。さらに被害者の権利ということが強く言われるようになり,あたかも法廷が報復の場となろうとしているなかでの裁判員制度であることに不安を感じる。「ある陪審員の4日間」でも明らかとなったのは「疑わしきは被告人の利益に」の原則を社会一般人の感覚としてどのように徹底できるか,どれほど冷静に合理的に判断できるかである。これから始まろうとする裁判員制度でやれることかどうか,裁判官の意識にかかっているとすれば非常に危ういものを感じる。来週日弁連でこの制度をどのように実施していくのに問題点があるのか,その対策と今後の課題等点を検討する委員会が開催され,出席するつもりである。

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