文化の日

2006年11月4日

昨日は文化の日で国民の祝日であった。文化の日などというといったい何の日だろうかと思う人も多いのではないか。文明開化の昔のことを言っているのか、はたまた公民館の文化講座に行きましょうというのかその意義が語られない。文化の日は日本国憲法公布の日を記念した祝日である。今年は60年目という節目の年である。そうであれば、もっと意義ある祝日となるような催しがあってしかるべきであるが、今の国としては触れたくないことなのかもしれない。しかし、逆に今では政府与党は、憲法を踏みにじるかのように外部に対して核武装論ととられても仕方のないような見解を発信している。このような状況で文化の日が何事もなかったように恒例の叙勲があったりするだけで終わっていることは恐ろしいことである。rnrn私は、所属する国際奉仕団体のバザーのお手伝いにでかけた。このバザーの始まる30分以上も前に既に多くの人が並ぶ。私もいくつか献品をした。いただいた中性洗剤を我が家では環境問題、健康のことを考え使わないのでこれをバザーに出したのだが、自分で使わなくとも人に使わせるのだから、本当に環境にいいことをしているとは思えないところに心苦しさを感じる。決していいことをしたとは納得はできないが、バザーの売上金として使用して頂けるということで納得したい。rnrn夜は妻の通っている教会の家庭集会が我が家であった。牧師夫妻や近くに住む教会員の方々らが集まり、聖書の解説を聞き、そのあとは懇談をする機会である。岡大に近いこともあってガーナ、ケニアの留学生もくることもあるが、今回は論文準備などのため忙しいようであり、不参加であった。きょう読まれた聖書の箇所は、よく引用されているイエスの「汝の敵を愛せよ」のことが書かれている箇所であった。片頬をなぐられれば、もう一方をさらに殴らせるように頬を向け、上着をはぎ取る者に対しては下着も差し出せという話である。このことの実践は感情としては不可能に近い。しかし、憎しみの感情があったとしても許していく態度こそが愛というものであるということのようであるが、このことは真実かもしれないが難しいことである。アメリカでおきた学校での銃乱射事件で多数の人がなくなった事件がおきたが、すぐさまその被害者の親族の人たちが加害者の親族のところに赦しの意思を伝え、一緒に祈りを捧げることを誘ったことが報道されていた。この人たちはアーミッシュというキリスト教の一派の信仰を持つ人たちであり、このような態度ばかりではなく感情もそうだとすれば、すごいことであり、信仰なくしては考えられないことである。また、最近の犯罪被害者の人権という枠組みのなかで、殺人犯には死をもって償わせるべきであるとか、若年者であっても重大犯罪は厳罰をもって罰せられるべきであるという意見が良く言われるようになり、その方向を是認するマスコミの報道傾向がある。社会としても赦しを否定する論調が強くなっていると思う。宗教を離れても刑罰の社会制度としての意義を冷静に考える議論があってもいいいのではないかと思う。

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