「裁いてはならない」

2007年11月26日

この言葉は新約聖書のパウロが書いた手紙のなかででてくる。人を裁く資格のあるのは神のみであり,他人を裁いたり,自分を裁いたりすることをしてはならないことを書いている。エホバの証人はこうした言葉が聖書の中にあるとして,司法そのものを否定する行動をとることがある。今日のニュースのなかで犯罪被害者の会の集会が開催されて,そこに検事総長が出席し,少年事件においても少年にその審判手続きのなかで被害者が直接尋問できる手続きを実現すべきであると挨拶したことが報道されていた。成人の刑事手続きのなかに,被害者が積極的に関わることができる制度が実現してきている。最近の刑事訴訟法の改正は刑事手続きが復讐の場であり,感情によって糺弾して行く場となってきていて,おぞましい感覚を持つとともに,適正手続きを定めた憲法に違反する手続きではないかと私は思っている。少なくとも刑事手続きをゆがめるものである。まさに,裁きを被害者にさせようという手続きではないかと思う。

大学1年生のころのことでいまから40年以上も前のことである。法学部法律学科でありかつ法律専門職を目指す第1課程であったので,1年生の時に刑法総論が講義に組み込まれていた。刑法総論では大きく学派が2つに別れていて,当時は団藤重光をトップとする旧派,木村亀二をトップとする新派の人格を互いに非難しあうほどの激しい争いがあった。刑法総論はこの木村亀二の講義であった。新派の刑罰論の神髄は,刑は教育刑であるというところにあった。当然に死刑は刑罰として認められないという立場であった。司法試験を受験する90パーセント以上の人はポピュラーな団藤さんの本を読んでいた。私は,偶然かも知れないがせっかく新派の大家の講義を直接聴く機会が与えられたのだから,受験のために説を曲げることはしたくないと最後まで木村先生の本で勉強した。私は刑法学会に一応所属してるが、今頃はこのような激しい対立論争はないように見える。

その講義の初めのころ(最初か2回目ぐらい),どのように質問したかは忘れたが,木村先生の回答は「私たちは神でないから,最終的な裁きをすることはできない。しかし,神ではなく不完全な人間だから,不完全な社会・制度のなかで生活をしていかなければならない。だから,犯罪も発生するが,そのなかで不完全ながら社会を形成して暮らしていこうとすれば,刑罰が必要である。」というものであった。法学部にはいって,まだそのほんの入り口を覗き始めたころであり,なにか法のなかに真理があり,法学部はそれを追求する学問なのではないかと漠然と考えていたことに対してはっきりと違うことを言われたと覚えている。もしかして,木村先生はクリスチャンで「裁いてはならない」という聖書の言葉を意識して言われていたのかもしれないと今では思う。最近は,殺伐として隣人をきびしく「裁く」ような事件が多発しているように思える。

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