疑わしきは被告人の利益に

2008年1月9日

今日は,事務所が新年の業務を初めて2日目であるがずいぶんと日が過ぎたように感じる。昨日は数十ページの上告趣意書を完成させて最高裁に送った。年末,年始と被告人と接見を重ね,最後の審理となる最高裁に被告人の思いのすべてを届けると言う意味で,法的に必要とされること以外も多く触れることになった。そして,労働事件の打ち合わせも2件あった。出張を要することになる県外の裁判所の事件を受任した。カルト教団から年末に脱会できた人の教会側に預けていた通帳・現金や身の回りのものについて返還を受けた。そして,きょうは裁判所から提出期限だといわれていた準備書面などの提出を終えた。この事件は年末に県北の身障者介護施設に依頼者を訪問して話をきいてきていた事件に関してである。あわただしく始まった新しい年である。

今夜のニュースは,子どもが3人死亡した福岡の交通事故に関しての判決を各社一番に取り上げていた。一様に,単純に業務上過失致死を適用して,危険運転致死罪を認めなかった判決を批判している。その理由とするところは,3人もの幼い命が奪われたのに,酒を飲んでいたのに,飲酒に厳しく対応することになった世の中の動きに逆行している,死の重大さと罪の均衡がとれていない,判決に情がないなどなど,,である。それでは,危険過失致死罪を適用して,求刑の懲役17年の判決が正義だったといえるのだろうか。今の刑事事件に対する世論は異常さと危険を感じる。

刑罰は,あらかじめどんな行為に対してどんな罰が科されるのか明確に決められていなければならない。これは「罪刑法定主義」として刑罰の古典的原則であり,これが崩れては人権が守られる社会は滅亡する。今回の問題は,まずは構成要件を定める条文自体に曖昧さを残していることが問題である。この曖昧さを勝手に判決で拡大したり,類推したり,拡大解釈することはできない。罪刑法定主義から当然に導き出される原則である。本件の場合は,運転するのに危険な状態であったかどうかが争点となっていたが,裁判官は事故にいたるまでの運転の経過からみてその状態にあったかどうかに疑問を投げかけたのである。説明を聞く限りもっともな説明である。泥酔して運転できないような状況でなかったことは確実である。そうすれば,運転するのに危険な状態であったかどうかについては確実な証拠がないことになり,「合理的な疑いを容れない」程度に立証されたとはいえない。その場合,「疑わしきは被告人の利益に」の原則にたって判断されるのが刑事事件の大原則である。その原則の存在によってえん罪が防げるのである。刑事事件に感情をいれて被告人が憎いから,結果が重大だから重罰の罪を適用するということになればそれはまさにえん罪である。この大原則が忠実に適用されてこそ,健全な刑事裁判であり,社会なのである。そんな意見が全くコメントでだせないような雰囲気があることが怖い。さらに裁判員制度は,プロの職業的裁判官が陥りやすい判断のミスを裁判官とは違った目で,「疑わしきは被告人の利益に」の原則を徹底させてえん罪を防ぐことに意義があったはずなのに,逆に群衆の感情的な言葉でえん罪を生み出しかねない危険をはらむことになりかねない危険がある。この大原則の徹底こそが必要である。

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