「偏向」していても,「反日」でも,

2008年4月11日

映画「靖国」をめぐって,出演者にこの映画に異議を唱えている国会議員が接触していたことが明らかになるなど,表現の自由をめぐってさらに問題が複雑化してきている。そして,表現の自由が侵されているとの意見を述べている人たちは,この映画は反日的でもないし,偏向しているものでもないとこの映画を擁護している。

しかし,映画が「偏向」していても,「反日的」であってもこの表現の自由は尊重されなければならない。「偏向している」「反日的」であると誰が判断するのか。時の権力がこれを判断するのであれば,結局,権力に都合のいい表現しか許されなくなってしまう。権力側に都合にいい表現はいつの時代にあっても決して制限されることはない。あえて表現の自由があると言ってこれを守ろうとしなくても,常にその表現の自由は最大限保障されているのである。憲法に基本的人権の一つとして検閲を許さず,表現の自由を保障しているのは,時の政権,権力にとって不都合な表現の自由を保障するためにこその規定である。これが保障されてはじめて自由な民主主義国家を形成することが可能となる。問題は,この映画が偏向しているか否か,反日的であるか否かではない。

こんな形で,この映画の上映ができなくなってしまうのは,まさに民主主義の基盤が崩れようとしている危機的状況となっていることを意味している。

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