「巨大なる凡庸」

2008年4月17日

BPOは,光市母子殺害事件に関し,マスコミの報道の仕方は,事件を弁護団と被害者の感情の対立構造に焦点をあて,感情を煽り,一方的に被害者に共感するというな報道に終始したことに対して,きびしく反省を求める意見書を発表した。最後の章は以下のような書き出しで始まる。

「「巨大なる凡庸」—とは、7時間半におよぶ本件放送を見終わったあとの委員会の席上で、ある委員が口にした感想である。
 巨大とは、テレビそのもののことである。大事件をめぐって、何十人、何百人という取材陣と番組制作スタッフがどっと動き、いっせいに同じことを伝える。ごった返す取材現場と時間に追われる制作現場から送り出された映像と音と言葉は、たちまち家々のテレビ画面に、個々人の携帯端末にあふれかえる。テレビはまず、規模が巨大である。
 だが、光市母子殺害事件の差戻控訴審を伝えた数々の番組は、そうであるだけではなかった。ほぼすべての番組が、「被告・弁護団」対「被害者遺族」という対立構図を描き、前者の荒唐無稽と異様さに反発し、後者に共感する内容だったことはすでに指摘したとおりだが、反発と共感のどちらを語るときも、感情的だった。
 感情的ということのなかには、その口調や身振りが感情的だったということもあるが、もうひとつには、刑事裁判という法律の世界の出来事を、普通の人間の実感レベルだけで捉え、反応しているという意味もある。刑事裁判の仕組みなどそっちのけで弁護団に反発したり、文脈や証拠価値のちがいも区別しないまま、被告の法廷での供述と、精神鑑定の際の言葉をいっしょくたに非難したり、などというのは、その一例だった。
 もちろん実感は、大切なものである。季節感、生活感、現実感をなくしたら、人生の意味は半減してしまうかもしれない。しかし、他方で私たちは、自分の好き嫌いを押し通したり、気に食わない、やられたらやり返せ、などと実感のおもむくままにやっていったら、わが身の暮らし、地域や世の中、そこらじゅうが大変なことになることも、少しは知っておいたほうがよい。
 凡庸は、こうした大切でもあれば、危うくもある、実感の過剰を指している。被告の供述や精神鑑定の場で語ったとされることは、それだけを取り出せば、奇異で異様な言葉である。そのことは実感のレベル、常識のレベルで考えれば、誰でもわかる。

「巨大なる凡庸」とは,まさにぴったりの表現である。昨日,裁判員裁判の行われる法廷を見学し,不安感に襲われたことを書いた。その不安の一つはこのことにあった。人は,感情の高ぶりによって,冷静な合理的判断能力が著しく減退する。こうした被害者の感情をマスコミが煽ることによって,裁判員に誤った判断を誘因することにならないだろうかときたるべき裁判員制度に不安を感じたのである。そして,今日は被害者が,法廷で直接被告人に質問することができ,求刑などの意見をいうことのできる刑事訴訟法の改正が成立した。この改正によって,法廷の場を,感情を煽り立て,その雰囲気のなかで判断させようとするものにし,そのことが理性的な判断を誤らしめ,えん罪を生むことにならないかと不安になるのである。裁判員の果たすべき役割は単純に社会一般人が見れば有罪との判断に間違いないかどうか,合理的疑いを容れない程度に立証が尽くされているかどうかをみることにある。つまり,疑わしければ,無罪にするという原則を貫くことにある。裁判官は,法律家の専門家として,その判断に誤りがあったからこそ,今までえん罪事件を起こしてしまったのである。裁判員までもが,裁判官といっしょになって,有罪に間違いないと先入観を持ち,検察官のいうとおり有罪にすべきであると考える必要はないのである。そして、もう一つの不安は、評議室で繰り広げられるであろうドラマの行く末であった。

「巨大なる凡庸」は,あたかもそれが本質であるかのように,今日も各チャンネルで同じようなニュースが,同じような取り上げ方で,少しでも視聴率を上げるための調味料が添加されて,合理的な思考が後退し,感情を煽り立てているのである。

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