法律は、行動の良否の判断基準?

2008年6月13日

福島を17時11分にでて,岡山に22時38分に着いた。行きは東京までは飛行機であったが,帰りは新幹線を乗り継いだ。新幹線の広告に,「エコ出張」とあった。1座席あたりのCO2の排出量は,飛行機の10分の1だそうだ。その意味では確かにそうかもしれない。飛行機が好きな私はとにかくあまり深く考えないで,頭の中をやりすごした。

乗り換えの東京駅で,朝日新聞の夕刊を買った。そのコラム記事で、法律を守る利点の一つとして「法律を守っていれば、行いの良し悪しをいちいち自分で判断しなくてすむので、生活に余裕ができるという効用がある」ことを指摘していた。

法律は、人の行動の善し悪しを決めているものではない。例えば、刑法では人を殺せば死刑になることもあることは定めている。人を殺してはいけないとは決められていない。殺人という行為と刑罰との関係を定めているだけなのである。しかし、人を殺してはならないことは当たり前のことである。法律がその行為の良し悪しを定めたものではない。人類は、おそらく普遍的に殺人は「罪」だと考えているだろう。その価値観は法律とは全く別のところから発生している。また、法律には「車は左側通行」などという決まりもある。このように、倫理的には全く中性に属することも法律にはある。このことに関して言えば,グローバルにみれば、車は右側を通っているのがスタンダードであろう。

法律を守ることは、社会において共同生活を送って行く上で最低限必要なことではあるが、法律を守ることが必ずしも良き行いをしていることにはならない。法律をまもることによって、「良し悪しをいちいち自分で判断しなくてすむ」などと、安易に考えてはならない。物事の良し悪しの価値判断は自分でしっかりと考えるべきであろう。

この筆者は「律宗」という仏教のひたすら「律」を守り、修行に専念するとの考えを、法律に例をとって述べていたようであるが、例のあげ方に無理があると思われる。なんだか、行動の善し悪しを、自らしっかりと考えながら行動することの必要性を軽んじているようで気になった次第。また、宗教において、「律」を守ることが、真の意味を考えることを通り越してそのことだけが目的化しているようであれば、とうてい真理にたどりつけない宗教なのではないかとも思えた。

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