戸塚ヨットスクール

2006年10月2日

朝からずっと雨だった。岡大の銀杏並木の緑がみずみずしく、やがて色づいて風景が一変されることなど今は考えられない様子だが、雨は冷たく、岡大の裏山を霞ませ、季節の変化のまえぶれであろう。この雨で阪神・中日戦は中止となった。テレビをみながらしばし感動と興奮(おそらく)の時を過ごそうと思っていたがあてがはずれた。rnrnというわけでいくつかテレビ番組をはしごしながら過ごしていた。小泉元総理は、国会にも顔をださず、DVDや書籍を多数高級ホテルに持ち込んで、のんびりと過ごしているようだ。さっそく、そのことに触れて国会議員なのにそれでいいのかなどと評論家がコメントしていた。しかし、長い間国のトップとして片時も完全なプライバシーを得ることはなく、困難で孤独な決断をいくつもしてきて、その緊張感は何ものにも代え難いものであったと思う。そこから解放されたのであるからご苦労様と労をねぎらってあげるのは当然ではないか。しばし、緊張のほぐれる期間をおいてあげることは必要なことだと思う。しかし私は、決して小泉首相のやってきたことを評価するわけではなく。弁護しているつもりもない。ちなみに次女は小泉バンキシャを最後の任期1年半担当して、その多忙さを近くでみてきていたが、休む間もなくもう次の仕事に追われているようだ。rnrn戸塚ヨットスクール事件のその後についての報道がなされていた。事件は昭和58年のことであったが、ヨットスクールの体罰で3人が死亡し、体罰を評価するか否かをめぐって1審と2審裁判所で考え方が分かれて1審は執行猶予刑を、2審では懲役9年の実刑となり、最高裁で2審が維持された。戸塚校長は今年春に出所し、彼の持論に基づいて「教育」活動がなされていて、そのことの調査報道であった。いろいろと考えさせられる良い報道番組であった(あまり身内の関係しているテレビ局意外はほめないことにしていますが)。戸塚校長ははっきりと体罰は必要な教育だといまでも言い切っていたことは異様であった。そして、不思議であったのは生徒が亡くなって事件となったことに関して、戸塚本人と現在子どもを預けている親は「もし死んでも、それがその子(我が子)の運命である」と言い切っていたことだ。そして訓練を受けていた生徒たちに笑顔はなく、無気力に体罰がこないように従っているだけのように見えた。さらに衝撃的であったのは、訓練生はこの学校にはいっていることが親から捨てられていると感じていることであった。親との距離は決してなくなることない、親には決して連絡はとりたくないと子どもたちがそれぞれ述べていた。こうした学校に親は数百万円を支払って入学させているのである。rnrn石原東京都知事は、この戸塚ヨットスクールの体罰教育を評価する考えを述べている。その人が教育基本法の改正を声高に主張しているのである。教育に何が必要なのかは、戸塚ヨットスクールを反面教師としてみごとに浮き彫りにされている。教育基本法にはその前文において「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育」を宣言し、その目的を「真理と正義を愛し、個人の価値を尊び勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身共に健康な国民の育成を期す」としている。すばらしい教育の本質が述べられている。このどこが気に入らないのだろうか。何を変えようとしているのだろうか。変えようとしている人々の真意をしっかりと見据える必要がある。時々の時流に流されないきちんとした報道番組であった。

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