団塊の世代と三島由紀夫のころ

2006年9月25日

私は昭和22年生まれの団塊の世代である。最近、いろいろと団塊の世代が話題にされる。昨日も「団塊の世代」の名付け親である堺屋太一氏らが出演して団塊の世代について論じている番組があった。世代としての特徴があるのかもしれないが、個人的に大きな影響があったのではないかと思えるのは、激しく燃え盛ったあの学生運動の時代に生き、社会とは何か、国家とは何か、大学とは何かなどと常に本質的な問題を緊張関係をもって考えざるをえなかったことである。この時代を共有した人々には立場が異なることがあってもなにかシンパシーを感じる。これが同世代というものかもしれない。rnrn今日の山陽新聞の夕刊にやはり団塊の世代に関して様々な問題をシリーズで連載している記事で三島由紀夫の自害と楯の会のことについて書かれていた。市ヶ谷の自衛隊に人質をとって占拠し自害したのは1970年11月のことであった。私が司法試験に合格する1年前の出来事であり、市ヶ谷からもそんなに離れていないお茶の水にある明治大学1号館(今は高層のリバーティータワーになっている場所にあった古い建物)の4階の研究室で勉強していた時であった。午後3時頃であったろうか。上空をヘリコプターがうるさく何機も飛んでいた。何事だろうかと思っていたところ、勉強仲間から三島のニュースが伝えられ、すぐに食事にでかけ、そこのレストランで中継されていた事件の推移を見守っていた。研ぎ澄まされた繊細な感性の持ち主であった三島は、その文学の世界を超えて理解しがたい行動にでたのである。現実をしっかりとみつめ、人が人として豊かに生きる社会の実現を目指していた行動とは思えず、どうしても私にはこの行動、三島由紀夫の思想をどこかでも受け入れることはできない。rnrn1971年に行われた三島由紀夫の葬儀の葬儀委員長となったのは川端康成であった。川端康成は1968年にノーベル文学賞を受賞している。この年の10月21日は新宿騒乱罪が適用された日であった。この日もお茶の水から新宿を通って京王線で千歳烏山に帰宅の途中のことであり、騒乱罪適用の10分ほど前まで新宿西口にいた。路地と言う路地に機動隊が闇に光るジュラルミンの楯をもってぎっしりと待機している様子をみてただならぬ雰囲気を感じた。そして、川端康成はその年の12月にノーベル賞受賞のためにオスロで記念講演をしている。その題は「美しい日本の私」であった。この題は最近首相になろうとしている誰かの本の題名とそっくりである。そして、東京都都知事選に美濃部候補の対立候補であった元軽視総監秦野章の応援をしていた。自ら合い言葉を「勝ち、勝ち、勝ち」と言って、選挙に勝つ、革新勢力に勝つ、もう一つは何か忘れたが何かに勝つと応援の先頭にたっていた。文学者としての晩年を汚すような行動であった。選挙運動の最終日、美濃部支持の声が新宿東口にとどろき勝利をおさめて新しい東京都政が始まった。この時も東京でこの事実をめのあたりに体験した。川端氏は文学者の感性を鈍らせ、時代が進むべき方向を完全に見誤っていた故の行動となっていたのではなかったか。そのことを現実とのギャップとしておそらく絶望感とともに感じることがあったのではないか、かれは1972年に自殺した。川端康成がノーベル賞を受賞した後にハワイを訪れて宿泊した場所が当時のカハラヒルトンホテルで、その部屋は「カワバタコテージ」と名づけられていて実はその隣のコテージに1974年5月にハネムーンで宿泊した。昭和天皇が訪米のため、時差調整のために立ち寄ったホテルでもあった。rnrn同じ「美しい国、日本」を標榜して総理になる安倍さん、現実の社会をしっかりと見つめて、平和で豊かな国造りのために働いてもらいたいと思っているが、三島、川端に共通する幾分の危うさを感じている。

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