ワイズメンズクラブの例会の日であった。月2回の例会であるが,きょうは事務例会と称するまさにクラブ運営の事務的なことを審議する例会である。例会では,まず準備された弁当を食べてから具体的な審議にはいる。きょうは,あるメンバーの発案で節分だから恵方の太巻きを食事にしようということになり,黙々とかぶりついた。黙々というのは今日だけのことではない。会議の始まるまえにそそくさとすませるのだから,いつも食べるのははやい。今日は,太巻きの1本だから,いつも家で食べる夕食よりもはるかに炭水化物は多い。量だけは十分に腹にはいった。
しかし,今日の食事は帰宅しても,なにか物足りないと思わされる。お腹はいっぱいなのだが,何かまだ口寂しいのである。ゆっくりと自宅で味わいながら,話しながら食べると充実した満足感が得られるが,きょうはそうはならないのである。自分のために作られた料理を,ゆっくりと味わうことが満足した満腹感を味わうことができる。この感覚は何も料理の質からくるものではない。今日は,家に帰って,この口寂しさをまぎらわすためにアルコールを口にすることになった。
しかし,今日の例会ではすべての人が私と同じ感覚でそこでの食事をしたのではない。配偶者を亡くして,ここで食事を仲間とすることがもっとも充実した時を過ごしているのではないかと思える人,一番に今日の弁当は「恵方の太巻き」と提案したその人は,介護なしでは生活できない状況にある人,,,,,。一方でお腹が空いても帰宅して家族との食事をと食事をしないで,会議だけに出席してきた人もいる。同じ場所で同じところで,同じ物を食べていても,そのことの持つ意味はそれぞれに別のものがあるのだ。いろんな人生が,共に食事をしている背景にあることを考えさせられる。