裁くのではなく,疑いのない立証の存否を

2009年3月14日

昨日のNHKの推理番組で裁判員裁判について大切なことがテーマとされていた。とはいうものの,私は少しだけみて眠ってしまっていて,妻から肝心の部分については解説してもらったものである。ある高校で裁判員裁判の模擬裁判がなされたが,結論は裁判員役となった主人公の一人の無罪との主張が結論を決めた。同じ題材で別のところでした模擬裁判ではすべて有罪であった。そのシナリオの元になった実際の事件も有罪であった。しかし,その主人公も本当は被告人が有罪であるかもしれないという疑いも持ちながら無罪としたのである。

最近の新聞では実施の近づく裁判員制度の特集記事も多く「あなたは人を裁けるか」などと、あたかも裁判員に神の裁きを求めるかのような論調もある。しかし,聖書には「人を裁くな。あなた方も裁かれないようにするためである」(マタイ福音書7章1節)などとあり,人を裁くことができるのは神しかできないもので,裁判は職業裁判官にまかせるべきであるという意見がでている。

 刑事裁判において、有罪判決とするためには、検察官が「合理的な疑いを容れない程度」(beyond a reasonable doubt )の立証ができなければ、たとえ真実は犯人であったとしても無罪としなければならない。 この刑事裁判の原則は、「疑わしきは、被告人の利益に」とか「無罪推定」などという言葉で表現される。99,9パーセントの有罪率のなかでは裁判官は有罪とすることに慣れっこになっている。捜査の段階においても無理をしてでも自白調書をとる。そんなことから死刑が確定しながらも再審無罪という信じがたいこともあった。今回の裁判員裁判では,普通の国民の常識でみて合理的な疑いを入れない程度の立証となっているかどうか,つまりもしかしたら有罪の確信がえられず,無罪の可能性もあるとおもわれればそれは無罪なのだ。その結果,真犯人を無罪としてしまうことが仮にあったとしても,えん罪の発生を防ぐことがより大切なのである。

ドラマの主人公は,検察官の立証が不十分であるが故に有罪とすることに疑いが残り,それは無罪の意見を主張し,無罪意見が過半数に達したため無罪となったのである。裁判員には,その疑いが残るか否かの判断が求められているのである。裁くのではなく,今持っているその人の常識を司法に届けること,そのことが適正な裁判につながるのである。国民の司法参加は民主主義社会においては当然のことであり,選挙権を行使するのが当たり前のように,裁判員になったら国民の義務として参加して欲しい。民主主義社会は,こうした義務を果たすことによって,成熟していくものと思っている。

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