憂鬱な?憲法記念日

2014年5月4日

世界に誇るべき国民主権、基本的人権の尊重、恒久平和主義を基本原理とする日本の憲法、この憲法の施行を記念した祝日憲法記念日のお祝いの日に、政権、政権政党は祝うのではなく、この基本原則を変更しようとする改憲の動きを強めている。軍国主義のはびこったアンシャンレジームを懐かしむひとたちの動きである。集団的自衛権の行使を容認するという憲法の基本原理を否定する解釈改憲は正に国家の性格を変える革命である。このような議論が、平気でまかり通る今の社会の恐ろしさ感じないわけにはいかない。今の政権、自民党がどのような憲法にしていこうとしているかは、発表されている自民党の改正草案を読むとよくわかる。立憲主義を否定し、かつての家父長制をあるべき家族像としてとらえ、基本的人権は時の政権が与えるものだとの思想が貫かれている。

日本の憲法は、1776年のアメリカの独立宣言、1789年のフランス革命、それに続く世界の人権宣言の流れを受けて、その流れを集約するような内容で人権宣言としては、先端をいくものである。13世紀はじめのマグナカルタから芽生えた立憲主義の思想を近代憲法として当然引きついでいる。時の政権によって、そう簡単に変えられるものではないし、簡単に変えられないことを憲法の欠陥であるがごとき議論はありえないはずである。しかし、平然と憲法改正手続きによる変更が困難であれば、解釈改憲でいいと主張する権力者たち。どうして、こんな当たり前の議論が、当たり前に通用しないのだろうか。

憲法改正の必要性を訴える人の中には、プライバシー権や環境権の規定が憲法にはないので、これを書き加えるために憲法改正が必要であるとして加憲として憲法改正が必要であると主張する人がいる。この議論も憲法改正を必要とするという動きの一つであり、警戒を要する考えである。今の憲法は、社会の変化によって考えられる新しい人権については、これを人権として保障しないのではなく、いつでも基本的人権のなかに取り入れて解釈できる構造を持っている。だから、私たちは、環境権を個別事件の主張する場合に、法的にはそれは憲法上の裏付けのある権利として主張していく。こうした、主張をくりかえしていくなかで、司法の場で、憲法上の権利として形成されるか否かが判断されていくことになる。本当に憲法上の権利として確立していきたい権利があるならば、憲法改正までしなくても権利としてそれを擁護する施策を政府がまず模範として行っていけば、それが憲法上の権利として、定着することができるのである。憲法の人権規定は、こうしたオープンな構造性を持っている。あえて、憲法改正をするまでもなく、新しい人権は、これを憲法上基礎づけることができるのが今の憲法なのである。

最近の「軽い」憲法改正論議は、憂鬱にさせられる。ひもじい思いをしながら、死を強いられた戦争を終えた後に生まれ、あの喜びをもって迎えられたこの憲法の神髄を今一度、しっかりと学びたいものである。

 

 

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