死刑執行に署名しなかった法務大臣

2006年9月27日

昨年10月、小泉政権最後の法務大臣として任命された杉浦法相は、就任直後の記者会見で死刑執行命令書には署名しないことを明言した。このニュースを聞いたとき、すぐに仲間のメーリングリストでこの事実を知らせた。ところがその1時間後にはその発言が取り消されていた。内閣の一員として法律を執行しないことを明言することは論理上してはならないことで、だまって署名をしないことが一番だ。しかし、結果として任期の10ヶ月間に死刑に署名することなく、1件の死刑執行もなかった。内閣の一員ではなくなった現在、その信念と署名拒否の理由をきちんと話してもらいたいし、是非とも聞いてみたい。rnrn世界の潮流は確実に死刑廃止の方向にある。いまや死刑制度が残っているのは失礼ながら文化的に野蛮な国だけであると言って良い。しかし、日本の社会では、被害者の声を聞けとばかりに厳罰化の動きが強まり、残忍な命に関わる事件では死刑を望む声が大きくなり、ここのところ死刑判決が増えてきている。今日も奈良地裁で死刑判決がなされたニュースが流れていた。「死には死を」との声が高まり、その被害者の親族は死刑判決がでなければ「負けた」と感想を述べている。国家を介しての仇討ちを正当化する論理である。そうした感情論に訴える論理が幅を利かせている世の中になってしまっている。「眼には眼を」のハムラビ法典の時代でさえ、そう簡単に死刑になることはなかったようだ。個人的復讐が、罪を犯した者の社会復帰可能な教育刑を理念とする国家の刑罰権に昇華された過程を逆にたどる最近の議論のありかたにおぞましさを感じる。テロにはそれ以上のテロで答える世界の動きと関係があるのだろうか。rnrnオウムの麻原の裁判を担当していた弁護士に裁判所から日弁連に対して懲戒請求がなされた。被告人の訴訟能力に問題があるとして控訴趣意書の提出がなかったことは、不当に裁判を延ばそうとする行為であり、懲戒処分をするべきであるとの裁判所の請求である。裁判所の思うとおりに裁判が進まなければ、弁護人を懲戒請求できるとする制度は司法の独立を侵す行為であると言わざるをえない。麻原の訴訟行為能力の存否については意見が分かれるし、もし訴訟能力がないとすれば、麻原弁護団の行為には全く問題がないことになる。弁護人が死刑は違憲であるとの信念をもって闘った結果であるとすれば、その行為の正当性が認められてもおかしくないはずである。死刑は無効であるとする弁護活動の自由を奪うことであり、そのことに裁判所がその活動を抑制する大きな力を発揮することになり好ましくない。もともとこの制度の創設が論議された時は、このような弁護士自治を脅かす制度になってしまうのではないかと危惧されていたのであったが、さっそく日弁連は大きな課題を突きつけられたことになる。

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