だからこそ裁判員裁判

2009年4月23日

毒入りカレー事件の林被告に死刑判決が確定した。殺人事件でありながらその動機は不明で否認のまま状況証拠だけでの有罪,死刑判決である。一斉に,こうした判断が法律に素人である一般市民にできるだろうか,このような重い判断を国民に任せていいのだろうかなどとの報道がなされている。

裁判官は,この重い判断をした。裁判官は,一般市民とは違って法曹としての教育を受けて,法律的素養のある人であることは間違いない。しかし,事実認定について特別の教育を受けてきたわけではない。いままで間違いを犯してこなかったわけではない。99,9パーセントの有罪認定をしながら,その中には死刑えん罪事件もあった。裁判官は,起訴されれば有罪であるとのドグマのなかで,合理的な疑いを容れない程度に検察官の主張が立証されたか否かを判断しているのである。この事実認定のあり方が一般市民の常識と異なることもありうる。今回の場合も,実際に審理に参加していたら,動機もはっきりせず,直接的な証拠もない状況証拠だけで合理的な疑いを容れない程度に立証されたとは言えないとの考えに至る市民もいておかしくない。長野サリン事件の被害者であり,一度は犯人として捜査を受けた河野さんは,状況証拠はいくつあっても状況証拠でしかなく,これだけで有罪という判断になったことに疑問を呈している。こうした重い判断であるが故に,市民がその常識を審理の中で生かして欲しいと思う。その意見が,判断を変える可能性もある。裁判官の判断が常に正しいのではないのである。

重い判断を求められる裁判員制度なんかやめてしまえとの意見もある。しかし,重い判断であるからこそ,裁判官に任せないで国民の常識を反映させることが必要なのである。裁判は,人を裁くのではなく,合理的な疑いを容れない程度に検察官の主張がなされたのかどうか,それが未だ完全でないとすれば無罪であるという原則を貫くことであるという大原則を,プロの裁判官の「有罪間違いなし」との常識にぶつけていくことが市民の役割である。政治は,プロの政治家に任せることはしない。任せて良いとも思えない。常に選挙権の行使によって国民の意思の反映を試みる。司法だって同じである。司法をプロにだけに任せてしまっている現状が問題である。裁判員制度にはこうした積極的意義があるということを忘れてはならない。司法に国民が参加しない制度の方が先進国と言われる国では珍しいのである。

今回の制度では,死刑判決後も決して被害者はそのことによって救われないことを示していた。被害者の死は,加害者の死によって償われるものではないことが被害者の家族の人々の死刑判決を聞いての感想で語られていた。死刑制度そのものについても考えさせられた。

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