水のかたまりをていねいにちぎる

塩水だけど、思ったほどは浮かないので、せっせと犬かきで浮いている。
ぎりぎり足のつく高さとはいえ、やはり泳がねば。
くらげとは、液体の氷である。
だからこのあたりのバーテンダーはシェイカーにくらげを入れて振る。
砂浜にいると、おしりがあたたかくてときどきまぶしい。
あなたのからだは海よりもつめたい。
 

懐かしき赤い客席にふかぶかと座った痩せぎすの

そのひとが10年以上前にふるさとのちいさな町で企画・演出した市民オペラのはなしを聞く。
コンサートホールは300人も入れば一杯になるような規模だが、のべ2万人が聴きにくる大盛況だったという。
舞台上で楽器を演奏するのはこどもたち、キャストに地元の劇団のメンバーや公募で選ばれた市民、フランスからアラン・ドロンらベテラン俳優が数名。
キャストが舞台をくまなく歩き回って歌い、踊り、セリフを投げ合うめまぐるしい演出で、いったいどうやって動線を覚えたのだろう、と不思議に思っていると、舞台上のポイントで、あるいは特徴的な台詞を言うときに、すれ違う相手を覚えるのがコツだ、ということを教えてくれる。

冗談以外で先生って呼んだことない

マスカラを塗り忘れていたら、そのメイクは知的な感じがして好きだと言われ、インテリジェンスが際限なく必要だ、以来、アルファベットを抱いて眠る、どの凹凸もわたしにそうことはなく、とりわけセリフが刺すから、無理だ、階級移動できる地点にはいない、数式を湯船に張ればいいのか、インテリジェンスはどこも尖っていて、身につかない、目が覚めて確認すると、潰れたアルファベットで畳まで白くなっている。

初期化する方法を夜明けまで検索していた

 
構造が部分的に損なわれる、それに伴って機能が部分的に、あるいは完全に喪失する。
 
恋人は保温機能を司る部分が破損しているに違いないので、背中から開けてみる。
「刺すとは思わなかった」
あなたがわたしを見なくなっていたことはむしろメンテナンスには好都合で、しかしこのトラブルに対しては、なすすべがない。
脊椎にある種の節足動物が寄生して神経を寸断し、間違った信号を送っているのだ。
「痛い」
間違った信号を受けて発せられることば。
「俺を殺すのか」
もはやどんなことばもわたしには向けられていない。
包丁を返しにキッチンへ行くと、電子レンジが明るく回転しており、ターンテーブルにのっているものはシャーベットだ。柚子の。いくら回ってもとける気配がない。
 
耐用年数をとっくに過ぎていた。

鉄鎖の端

隣接して建っている民家二軒は両方とも整骨院であり、先にできた整骨院は独身の男性が、あとからできた整骨院は夫婦がやっている。
独身男性は夫婦から、「二軒の間にレールを敷く、あるいはワイヤーを渡して機材を共有できないか」という話をもちかけられて困惑している。

バニラアイス

匙の銀色が、薄暗い部屋でひらひらと動いている。男はアイスクリームを掻き取っているのだ。女の口に、それを運ぶために。
 
「自分で食べる」
「ほどいたら逃げちゃうだろう」
「逃げないよ」
 
だめかもしれない、と思ったのは、彼女にとっては三回目。最初は幼稚園に上がりたての頃、補助輪つきの自転車が遊園地の海賊船みたいに空を舞った直後だ。ぐるりと視界がまわった次に見えたのはアスファルトと赤い水たまりで、不思議と痛みは記憶に残っていない。
二回目はごく最近。塩と檸檬とテキーラをかわるがわる口に運んで、かつて経験したことのない頭痛と嘔吐と下痢が同時に来た。駅地下のトイレに籠城し、しばらく意識を失い、警備員が閉鎖時間を告げにきたので這うように移動して近くのホテルに入り、朝までバスルームで過ごした。ポケットに入っていたボールペンで便器の蓋に巻いてあった薄い帯状の紙に、親の電話番号を書いた。
そして三度目、いま。男は楽しそうに笑っている。SNSで見つけた自称ソフトSの男と監禁プレイ中である。監禁プレイだと思いたい。まさか本当に監禁するつもりではないですよね?
約束と違うのである。最初は、お茶を飲んで、やってみたいプレイなど話し合ってからホテルへ向かう予定だった。清潔感のある服装、それなりに金のかかった車。車の中で一口もらった缶コーヒーに何か入っていたのは明らかで、いつの間にか知らない部屋で着衣のまま椅子に縛りつけられていた。
 
「どう? こういうの」
そう男が聞いたので、とっさに
「ドキドキする」
と言って微笑んでみせた。ドキドキどころではない。これはもう、だめなのではないか。彼女はくるくると回り始める走馬灯を頭の隅に追いやって、いまここから無事に帰る方法を考えなければいけないと思う。SNSで相手を見つけたりするのは、二年つき合った恋人と別れてからの、暇つぶしとしての自暴自棄の一環だ。どうにでもなれと思っていたはずだった。しかし、想定を超えた状態に置かれると、どうにかして危機を回避したいと願うものであるらしい。彼女はひとつひとつ、現在の状況を把握しようとする。
 
・外の喧噪が聞こえるから山奥ではない。セーフ。
・男は怒っていない。セーフ。
・目に入る範囲に刃物は見えない。セーフ。
・部屋は殺風景だが清潔だ。というより、自分が縛られている椅子以外に家具はない。アパートの空室のようなところだ。男は小さなカップに入ったアイスクリームを木の匙ではなく、金属の匙で差し出している。キッチンにはいくらか食器があるのだろう。つまりここは男の借りている部屋なのだろう。どちらかというと、ギリギリでセーフ。
 
「口を開けなさい」
彼女は当面この男に従おうと考えている。おとなしく口を開いて、貼り付くほど冷たい匙を受ける。バニラアイス。ずっしりとした濃厚な甘み。
男はおもむろにジッパーを下ろした。
「舐めていいの?」
「下品な女だ。舐めさせてください、だろう?」
「舐めさせてください」
顔中に粘液を擦り付けられて、「かたつむり美容液」という言葉を思い出す。雑誌によく載ってる。使ったことはないけれど、こういう感触のものなのではなかろうか。唇を割って圧倒的な存在感がもたらされる。
 
「俺は、つめたくした身体に入れるのが好きなんだ」
 
ああ、この発言は。
 
限りなくアウトだ。

睡眠部

白い部屋に学校の机と椅子があって、机を挟んで、向かい合って座っている。ふたりとも眠っていて、なかば覚醒したわたしは目をあけることなく「いまならこっそりと手をつなげる」と思うのだけれど、次の瞬間にはすでに手をつないだまま眠っていたことに気づいて、再び眠りに落ちる。
 
床に丸く乾いた猫の血を、蟻がすこしずつ齧り取ってゆく。
 

ちょっとした荒廃

 
数字やアルファベットやリボン型や筒型の、様々なパスタが積まれている。製品として出荷できなかったものが捨てられているのだ。ちゃんと袋に入っているし、賞味期限が過ぎているわけでもないし、なぜ捨てられているのかわからない。友人に誘われて、そのパスタを拾いにゆく。パスタの他には煙草が、こちらもきちんと包装された状態で捨てられており、男たちが拾いに来て、喫煙所のようになっている。葉巻を吸っている四十がらみの、サラリーマン風の白いシャツの男に話しかける。葉巻は珍しいですね。いや、ちかごろは結構あるんだ。葉巻の先を切って、火をつけてみせてくれる。吸うかい。吸います。さしだされた葉巻をくちびるに受けて、しかし、煙を吸い込むことはできないのだった。

がらにもなく日焼けしている五月

もうすこしで買えたはずのカンパーニュがいつまでも恨めしく、元恋人の新居では歓迎されないかわりに邪険に扱われることもなく、サンダルのワゴンセールをながめて、サーフボードの立てかけられた古着屋でガネーシャのにおいを肺の底まで吸い込み、朽ち果てながら改築中の我が家、とりかえしのつかないこと、極小と極大の対比、あらゆるものが隅々まで官能性で充たされている。
 
 
男を借りると腕がかゆくなる。