匙の銀色が、薄暗い部屋でひらひらと動いている。男はアイスクリームを掻き取っているのだ。女の口に、それを運ぶために。
「自分で食べる」
「ほどいたら逃げちゃうだろう」
「逃げないよ」
だめかもしれない、と思ったのは、彼女にとっては三回目。最初は幼稚園に上がりたての頃、補助輪つきの自転車が遊園地の海賊船みたいに空を舞った直後だ。ぐるりと視界がまわった次に見えたのはアスファルトと赤い水たまりで、不思議と痛みは記憶に残っていない。
二回目はごく最近。塩と檸檬とテキーラをかわるがわる口に運んで、かつて経験したことのない頭痛と嘔吐と下痢が同時に来た。駅地下のトイレに籠城し、しばらく意識を失い、警備員が閉鎖時間を告げにきたので這うように移動して近くのホテルに入り、朝までバスルームで過ごした。ポケットに入っていたボールペンで便器の蓋に巻いてあった薄い帯状の紙に、親の電話番号を書いた。
そして三度目、いま。男は楽しそうに笑っている。SNSで見つけた自称ソフトSの男と監禁プレイ中である。監禁プレイだと思いたい。まさか本当に監禁するつもりではないですよね?
約束と違うのである。最初は、お茶を飲んで、やってみたいプレイなど話し合ってからホテルへ向かう予定だった。清潔感のある服装、それなりに金のかかった車。車の中で一口もらった缶コーヒーに何か入っていたのは明らかで、いつの間にか知らない部屋で着衣のまま椅子に縛りつけられていた。
「どう? こういうの」
そう男が聞いたので、とっさに
「ドキドキする」
と言って微笑んでみせた。ドキドキどころではない。これはもう、だめなのではないか。彼女はくるくると回り始める走馬灯を頭の隅に追いやって、いまここから無事に帰る方法を考えなければいけないと思う。SNSで相手を見つけたりするのは、二年つき合った恋人と別れてからの、暇つぶしとしての自暴自棄の一環だ。どうにでもなれと思っていたはずだった。しかし、想定を超えた状態に置かれると、どうにかして危機を回避したいと願うものであるらしい。彼女はひとつひとつ、現在の状況を把握しようとする。
・外の喧噪が聞こえるから山奥ではない。セーフ。
・男は怒っていない。セーフ。
・目に入る範囲に刃物は見えない。セーフ。
・部屋は殺風景だが清潔だ。というより、自分が縛られている椅子以外に家具はない。アパートの空室のようなところだ。男は小さなカップに入ったアイスクリームを木の匙ではなく、金属の匙で差し出している。キッチンにはいくらか食器があるのだろう。つまりここは男の借りている部屋なのだろう。どちらかというと、ギリギリでセーフ。
「口を開けなさい」
彼女は当面この男に従おうと考えている。おとなしく口を開いて、貼り付くほど冷たい匙を受ける。バニラアイス。ずっしりとした濃厚な甘み。
男はおもむろにジッパーを下ろした。
「舐めていいの?」
「下品な女だ。舐めさせてください、だろう?」
「舐めさせてください」
顔中に粘液を擦り付けられて、「かたつむり美容液」という言葉を思い出す。雑誌によく載ってる。使ったことはないけれど、こういう感触のものなのではなかろうか。唇を割って圧倒的な存在感がもたらされる。
「俺は、つめたくした身体に入れるのが好きなんだ」
ああ、この発言は。
限りなくアウトだ。
睡眠部
白い部屋に学校の机と椅子があって、机を挟んで、向かい合って座っている。ふたりとも眠っていて、なかば覚醒したわたしは目をあけることなく「いまならこっそりと手をつなげる」と思うのだけれど、次の瞬間にはすでに手をつないだまま眠っていたことに気づいて、再び眠りに落ちる。
床に丸く乾いた猫の血を、蟻がすこしずつ齧り取ってゆく。
愛も同然
手をつないで、こども同士のように近所を歩きまわる。
あなたがこんなに近くに住んでいたなんて知らなかった。
ちょっとした荒廃
数字やアルファベットやリボン型や筒型の、様々なパスタが積まれている。製品として出荷できなかったものが捨てられているのだ。ちゃんと袋に入っているし、賞味期限が過ぎているわけでもないし、なぜ捨てられているのかわからない。友人に誘われて、そのパスタを拾いにゆく。パスタの他には煙草が、こちらもきちんと包装された状態で捨てられており、男たちが拾いに来て、喫煙所のようになっている。葉巻を吸っている四十がらみの、サラリーマン風の白いシャツの男に話しかける。葉巻は珍しいですね。いや、ちかごろは結構あるんだ。葉巻の先を切って、火をつけてみせてくれる。吸うかい。吸います。さしだされた葉巻をくちびるに受けて、しかし、煙を吸い込むことはできないのだった。
がらにもなく日焼けしている五月
もうすこしで買えたはずのカンパーニュがいつまでも恨めしく、元恋人の新居では歓迎されないかわりに邪険に扱われることもなく、サンダルのワゴンセールをながめて、サーフボードの立てかけられた古着屋でガネーシャのにおいを肺の底まで吸い込み、朽ち果てながら改築中の我が家、とりかえしのつかないこと、極小と極大の対比、あらゆるものが隅々まで官能性で充たされている。
男を借りると腕がかゆくなる。
非実在中高年
白髪も増えてるしおでこは広くなってるし、成田先生、ちょっと見ないうちに随分老け込んだ。
偶然お会いした女性俳人のTSさんに成田先生を紹介する。
TSさんはアンソロジーではポートレートのかわりに花の写真を載せていたが、おとなしそうなショートヘアの美少女であった。
成田先生の勤務先を「愛媛大学」と言い間違えてしまう。
愛媛大学はSAさんの御父上の勤務先である。
一階は本屋だが、
地下に呪術的な煙管屋がある。
あなたわたしをじたばたしてくださいましたね
ほんの少ししか悪気はなかったのに、上着を脱いだことであなたを欲情させてしまった。いまはもう決まった相手のいるあなたを。申し訳ないが、これは夢だ。はやく覚めてください。近頃のわたしの夢は生々しい身体感覚をともなうのに、あなたの唇はまったく何の感触もない。お互いにこんなことは望んでいないからでしょう。やめよう。はやく覚めてください。
快適さについて
女性アイドルグループの一員として合宿に参加している。外国のリゾート地、海辺、ホテルは東京のサクラフルールにすこし似ていて、いかにも女の子の好みそうな雰囲気。ファンの方へのプレゼント用に十二星座にちなんだクッションを作るため、手芸店に買い物に行こうとリーダーが言う。階段を下りながらどんなクッションにするか相談している。ピンクのベロア地に、星座の記号を刺繍し、まわりにはフリルをつけるのがいい。コンサートは明日だ。十二個も作れるかしら。十二星座モチーフはやめて七曜にしませんかと進言する。目を離した隙にリーダーは現地の男性をナンパしていちゃついた上に殴られている。どうしようもない。
実際に服を脱いで入浴するアーケードゲームを試すが、泥水なので不快。
屋根をわずかに見せてダムの底に沈みゆく村、急斜面に建てられた別荘、ゾンビが徘徊する建物に住むパンク少女にはじめての恋人ができて、彼と彼女はスカルとチェッカー柄とヘアワックスだらけの部屋で息をひそめる。
ホールケーキにナイフを入れてこの場所にコインパーキングを作ります
旅の終わりに友人二名(男女)が川に入って、川底に沈んでしまった。浅いのに。わたしも川に入ってみるが動かない二人は確実に死んでおり触りたくない。「無駄だよ、死んでるよ」と他の友人が言っている。わかっている。しかしあなたと違ってわたしは世間のひとたちから薄情者だと思われたくないのだ。引き上げる努力をしめさなければ。それにしても触りたくない。肩のあたりに手をかけてみたが、顔なんてもう、ふたりとものっぺらぼうになってしまって、パーツの全部取れたぬいぐるみみたいにぬべっとしている。
クピドのごとき巻き毛の美少年にフランス語で愛をささやかれたのでおごそかにキスをした。十二時キックオフです。