おそいおそいおそい詩

 

2016年7月29日-30日に開催されたTOKYO ART FLOW
おそいおそいおそい詩」という作品(連詩)に参加させていただきました。

夜景プロジェクト−マゼンタナイト−「おそいおそいおそい詩」
アーティストの髙橋匡太が商業施設、街路灯など街を巻き込みながら夜の風景をテーマカラーのマゼンダ色で染めていくプロジェクト。
詩人の集まり「oblaat(オブラート)」とのコラボレーション。一文字ずつの連詩で書き上げた詩を繋いでいく作品です。
髙橋匡太+oblaat(山田 亮太、河野 聡子、石原 ユキオ、髙塚 謙太郎、中家 菜津子)

1文字を30分立体駐車場の壁面に投影し、三夜かけて18文字の詩を発表。
詩を作る段階からして1日1文字ずつ交代で書くという超スローペースでした。

わたしが書いた数文字中の1文字、目。

壁に投影される詩を全文読むのはかなり難しかったと思います。(通い詰めて全部読んだひとがいたらすごい。)
ほとんどのひとが、途中から途中までしか見られない。
前はどんな字が出たんだろう、次はどんな字が来るんだろう、と推理してくれたひとの中に、無数に詩が存在しているということがこの作品の面白いところであるし、途中から途中までしか体験できないって人生そのもののようだね、と思ったりして、夏の夕方にしみじみとした気分になったのでした。

(会場に行ったひとのツイートを見ながら。)
(岡山の自宅で。)

かばん6月号を読んでます(2)

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つづきです。前回はこちら

●「かばんゲストルーム」は俳人の福田若之さん。
タイトルが「題名に似て置き去りの蛇の皮」。題名も一句と数えれば13句の連作。禍々しい、陰鬱なイメージでいくのかと思ったら、最後の二句でふっと明るくなってすっきりとした読後感、というところに意外性があってよかった。

胃のなかに六月の煮崩れた街  福田若之

蛇モチーフを踏まえて読むと、やはり蛇の胃袋なのだろう。
人間の胃袋の内容物は咀嚼されたために元の形を保っていない。
蛇は丸呑みするから、蛇の吐いたネズミなどはまさに「煮崩れた」ような状態で出てくる。ちなみに吐き戻されたピンクマウスはこんな感じだそうです(リンク先のページ、スクロールして真ん中あたり)。
「煮崩れた街」は、それでも「街」だったとわかるだけの形を保っていそう。

脱ぐと時間をずれていく蛇ずれていく  福田若之

皮の中を蛇のからだが動いて模様と模様がずれながら脱皮していく。繰り返される「ずれていく」が伸び縮みの動きを繰り返す蛇の姿を思わせる。俳句による蛇の形態模写みたいで面白い。

さっき雨脚をぜんぶ自分で捥いでかなぐり捨てた虹だ  福田若之

空まで脱皮してる!

●評論ののぞき穴——あなたの書き方、教えてください!——
これは、評論やコラムでスランプに陥ったときに繰り返し読みたい特集でした。

評論を書くときは「歌書プラスワン」をルールとして意識している。学術書なり短歌外の作品なり、論じるテーマと同時代を表象した資料を一つは入れることで、批評の骨格が立体的になることを知ったのである。

山田航「評論の方法論が確立するまで」

(頑張れそうなときは)真似しようと思う。

また、飯島章友さんの「過ぎゆきにヘッドロックをかけられる」は、五年前に執筆した小論の反省。「うまくいかなかったパターン」を教えてくれるひとはなかなかいないので貴重な視点。
「労働・職業」の歌として引用した、

息つまるヘツドロツク、はつと思ふまにどたりといふマツトのひびき  前田夕暮『青樫は歌ふ』

は、プロレスではなくて十中八九アマレスだと思ってたから本当は「職業」の歌としてふさわしくなかった……という告白、ちょっと笑ってしまった。

特集の執筆陣による「評論七つ道具」はかなり具体的で今日から使えるアイデアに溢れています。
東直子さん「ポスト・イット ジョーブ透明見出し 44×6mm」。透明ふせん流行ってますね。
高柳蕗子さん「ネコ」「こたつ」この二つは個人的には諸刃の剣だと思っております。
久真八志さんおすすめの「Evernote」はわたしも愛用しています。共有設定にできるので、資料を共有したり、アイデア出ししたり、共同制作にすごく便利。最近1アカウントを3台以上(例:自宅PC・職場PC・スマートフォン)で同期するユーザーは有料になりましたが、有料で使う価値はあると思う。

ところで、こんな楽しい「かばん」にわたしの書いたものも載っております。
特集「酵母と桜」に「歌の外を見ない歌論」と題して高柳蕗子著『短歌の酵母』評を寄稿したのであります。
「歌の外を見ない評論」ってまるでディスってるようなタイトルですが、高柳蕗子ファンとして「短歌の酵母はいいぞ! 最高だぞ!」という話を「BL短歌」や『共有結晶』に言及しながら書きました。

“わたしはつねに腹を立てながら短詩型文学に関わってきた。”

“誰の人生も消費しない短歌評論が可能だという事実は、他人の人生をワイドショー的に詮索する鑑賞態度に違和感を覚え続けてきた者に勇気を与えてくれる。”

このあたりはわかるひとには「あああああー……↓↓↓」と共感していただけると思います。

かばん取り扱い書店

かばん6月号を読んでます(1)

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特集「酵母と桜」に寄稿させていただいた『かばん』2016年6月号から気になった短歌を。

いつもよりちょっと悪い子になる薬 ルームサービスのきつねうどんは  うにがわえりも

「いつもよりちょっと悪い子になる薬」までなら昭和の、ちょっとエロい歌詞をカマトトな態度で歌うタイプのアイドルソングみたいな言葉選び。「ルームサービスの」で、ふむふむ、実際の薬物じゃなくて比喩なのね、シャンパンかなフルーツかな、と思わせたところに「きつねうどん」でうっちゃりをかけるセンスに痺れた。なかなかこの流れで「きつねうどん」は出てこないですよ。「ルームサービスのきつねうどん」というとラブホテルの小窓から差し入れてドンと置き去りにされる、伸び切った、あるいは部分的に凍ったままの絶望的なきつねうどんしか思い浮かばないのだが、どうやったらそんなもので悪い子になれるのか。悪い子ってどういうのが悪い子なの。物事の捉え方のおかしい感じ、状況のわからなさが逆にいい。

履歴書の四角いところ三センチくらいの笑顔だけ貼りつける  藤島優実

「履歴書の写真貼付欄に三センチくらいの笑顔の写真を貼りつけた」ということではなく「履歴書に写真を貼るみたいに(うわべだけの)笑顔を作ってみせた」ということなのでしょう。普段「四角いところ」と言うときに長細い形ではなく真四角に近いものを指して言ってるんだなということに気づかされる。就職活動を想起させるんだけど、魂までは売り渡してない、と同時にその場に器用に順応することもできてないような。

祖母が遺していった薄手のシャツのなかでまだペイズリー柄が動いています  小坂井大輔

そうなんだよね。ペイズリー柄って動くんだよ。うちのもわりと動く。

<黒王子>。<白王子>との関係と見なしてしまう。「腐ってやがる」。  ミカヅキカゲリ

※「関係」に「カップル」とルビ
言わずと知れたことですが「腐ってやがる」は『風の谷のナウシカ』に出てくる台詞で、ネットスラングとしては「腐女子/腐男子」に対しても使われる言葉。「腐ってやがる」は説明的に思えてしまうけど、「黒王子」と聞いたら黒王子×白王子という構図を自動的に妄想してしまうことに関しては共感せずにはいられない。

モザイクの向こう側にはあるだろう図鑑に載っていない性器が  谷川電話

「図鑑に載っていない」がすごい。モザイクの向こう側の性器を想像することはあっても、そこに「図鑑」というものを持って来れるなんて。「モザイクの向こう側」の「性器」は性的な欲望を向けられるものとしてあるはずなのに、「図鑑」によって「性器」が虫や魚や植物みたいなものと並べられて、性欲から少し遠ざかる。(逆に、現実に図鑑に載っている動植物は性器そのものと言えるのではないか、とも考えてしまう。)性器に関して、図鑑に載っていない虫を追い求めるようなまっすぐな探究心を向けるひとというのを想像するとちょっとおかしい。

猫だけが入れる扉のからんころんこの世ですこしかみさまに流行る  柳本々々

壁の下の方に設置された小さな猫ドア。神様が猫ドア鑑賞をしてるんじゃなくて、猫ドアを出入りしてると考えた方が面白い。多神教だとしたら「あの、猫用のやついいっすよ」「まじ? いつも適当に壁抜けてたわ」「いやあ、あのからんころんが最高なんすよ。つぎ人間界行くときぜひ。猫の背中に乗ったまま通るのがまた良くて〜」みたいな神様同士の口コミがで流行が広がったはずだ。一神教の神様のマイブームを「流行る」と言っているのだとしてもそれはそれでかわいい。ところで猫ドアって「からんころん」って音がするんでしょうか。製品によっては鳴るのかな。「からんころんこの世」という連なりが心地よい。

薔薇食めば薔薇に骨あり骨吐けば銀河宇宙や食はさびしゑ  睦月都

あー! 彗星の尻尾で魂を洗われるような耽美感! きもちいい!
薔薇の骨は魚の骨みたいな骨なんだろうか、それとも獣の骨みたいな骨なんだろうか。どちらかというと獣の小骨っぽいような気がする。宇野亜喜良の絵柄で脳内でアニメーションにしました。「食はさびしゑ」って、食べ物らしいもの食べてないのにそれを「食」と呼んでいる、この、霞食って生きてる感じ大好き。「ゑ」がね、これ自体が口から出てきそうな字ですよね、ペッてしたとき。

メルカトル図法とメンブレン式

 

金氏徹平のメルカトル・メンブレン

丸亀市猪熊弦一郎現代美術館
会期:2016年7月17日(日)-11月6日(日) *会期中無休

金氏徹平のメルカトル・メンブレン
金氏徹平のメルカトル・メンブレン
金氏徹平のメルカトル・メンブレン
金氏徹平のメルカトル・メンブレン

鼎談 金氏徹平×長嶋有×福永信「超訳!金氏徹平アワー」に行ってきました。
展覧会タイトルは金氏さんの依頼を受けて長嶋有さんが考えたもの。
現行のタイトルに決まるまでの紆余曲折をメールやSMSの画面を見せながら解説してくれるの面白かった。
長嶋有さんは結構強気に交渉するタイプなんだ! という驚き。

わかる・わからないのはなし

手打うどんつづみ「天ぷらぶっかけ」
 
かなり頻繁に美術館に通って現代アートを見慣れていると思しきひとが「現代アートはパッと見よくわからないことが多い」とSNSに書いていた。「けど、今回はアーティストトークが聞けたのでいろいろ納得した」という内容に続くのだが、そうなのですか。ほんとうにそうなのですか。と、問いつめたい。
 
専門的な美術教育を受けたことのないわたしの場合、「楽しい」「きれい」「面白い」「地味」「派手」「おいしそう」みたいなことが「パッと見」の印象だ。「わかる」とか「わからない」はほとんど意識に上らない。他人から「なぜこの画家はこんな描き方をしたと思いますか?」などと聞かれてはじめて「わかりません」が来るだろう。「わかる」「わからない」に関して鈍すぎるのかもしれない。ひとりっこのマイペースさがここにも出てしまっているのであろうか。そういえば幼いころ、遊びのルールがわかったのかわからないのかわからないまま加わって空気を悪くしていたことがあった。わかるわからないを気にすることも大事だったのだ。ごめんよ、もうきっと会うことのないおさななじみたち。
 
しかし「現代アートはパッと見よくわからないことが多い」と書いた方も、実は「現代アートは難しい」「現代アートはわかりにくい」という常套句のほうに引っ張られて本当は感じていないことを書いてしまったのではないかなぁ、という気もするのですよ。楽しく美術館通いしてるんだったらご本人の意識としては「わかる」「わからない」は二の次じゃないのかな。だからきっと「作品を鑑賞する際の糸口をアーティストに示してもらうと自分だけでは気づき得なかった部分で理解が深まる」というような感覚の方がより実態に近いのではないかと勝手に思ってしまうのです。
 
写真は猪熊弦一郎現代美術館の近くの手打うどん。

質問が難しい

 

インタビューが苦手だ。
聞かれるほうじゃなくて、聞くほう。
guca時代、わたしが聞き手となってある作家さんに取材する企画が持ち上がったのだが、どうしてもできないと言って断ったことがある。
 
なぜできないかというと、聞きたいことがないからです。
 
「訴えたいことがないんです」とは鳥肌実のネタだが、どんなに好きな作家さんであっても、とくに聞きたいことはない。
作品を楽しむ。気に入った部分を何度も読み返したりサイドストーリーを妄想したり、それはそれはおおいに楽しむ。雑誌に作家さんのインタビュー記事があれば、それも楽しく読む。しかし、自分から何か聞きたいことを思いつくかというと、まったく思いつかない。
 
個人的に聞きたいことがなくても、読者が知りたいであろうことを推測し読者をレペゼンして質問することは、理論上は可能である。ギャラの発生する仕事ならそうするだろう。でもそうやって乗り気になれないインタビュー記事をまとめたとして、面白い記事になるとは思えない。商業誌ならその種の面白くなさが許されるとしても、同人誌は前のめりな情熱がすべてだ。お金にもならないことをものすごい熱量をかけてやっているからこそ、ああどうかこいつらが赤字になりませんようにとお金を出してもらえるのである。
 
考えてみればインタビューだけではなく、初対面の相手と会話すること自体が苦手だ。天気の話くらいならできるが、そこから先に行くのが難しい。誰かと誰かが会話しているところを隣であいづちを打ちながら聞いているのならやぶさかでないのだが。
 
わたしの脳の中で「質問する」という機能を司るはずの部分が何か全然別の機能を担っているのではないか。たとえば他人よりすこし秀でている機能、早食いとか、似顔絵を描くとか、虫を素手でつかむとか。
 
こんど同人誌でインタビュアーをやらないかと持ちかけられたら、わたしが家の近所で集めた虫を持ち込んでどれなら素手で触れるかみんなで試す企画を提案しようと思う。
 
 

はからずもデトックス

 

上司のちょっとした一言に憤りを覚え怒りにまかせてミックスナッツを一抱えイッキ食いした夜中に嘔吐を繰り返し発熱し、そのまま数日間寝込んだ。おそらく感染性胃腸炎である。上司の言い方は悪かったが上司のせいばかりではないと思う。もともと体調がよくなかったからいつもならスルーできる言葉に苛立ったのだ。

ものが食べられないと何もできない、まともに歩けない、考えられない、本が読めない、あんなに入り浸っていたツイッターに何も書き込む気にならない。階段は座ったままお尻歩きで三段ごとに休み、ジョージ・A・ロメロの熱心な演技指導を受けたゾンビのような緩慢な動きでゲロ袋を蓋付きゴミ箱に捨て、冷蔵庫から経口補水液を取り出して水で薄めながら飲んだ。

ずっと座っているのはつらいが寝転ぶと背中が痛い。全身が痛い。正岡子規の苦しさがちょっとだけ理解できた気がする。台所から経口補水液を持ってくるだけでこんなに疲れるんだからへちまの水を取る気力なんてないだろうそうだろう。

で、そんな数日を経て徐々に体力は回復したのだが、胃腸炎の前と後ではっきりと変化したことがある。

回復後、おなかの調子が妙にいいのである。

たとえて言うなら以前は駅員が一枚一枚切符に鋏を入れる古式ゆかしい改札口。ラッシュ時は混乱を極めしばしば暴動が起きていた。現在は自動改札が導入されマナーのいい乗客たちが自動改札にICカードをかざしてスルッと通過していく。おわかりいただけるでしょうかこの感じ。サニーナおしりふきに頼らなくても平気になりました。

ちなみに高熱が出たせいか上司に何を言われたのかはすっかり忘れてしまいました。

 

往復

 

つばめたちが巣立ったあとの玄関にデッキブラシを往復させる

ホステスがいつも吐いてる電柱の根元に生えたひょろひょろの草

明瞭に見えない自然

『岡大短歌4』に寄稿しました。
山田成海さんとのコラボで往復書簡と短歌連作を制作。
タイトルは「こゆびくんとやくざくん」。

灰皿の中身のような街でまたベビーカステラ買えるだろうか (山田成海 as こゆびくん)
マシンガンみたいな雨を聞きながらヨド物置で頓服を噛む (石原ユキオ as やくざくん)

大森静佳さん(ゲスト)と川上まなみさんの往復書簡と短歌連作も載ってます。
こちらは「口語での自然詠」がテーマ。

暗いけどそこには海があると分かる 五歩先くらいが波際のところ  川上まなみ
川に落ちた街の明かりの動くのは川の流れているからだろう

光の奥にひかりはあって、白梅はたぶん盲目の花なんだけど  大森静佳
粘着質な夕暮れ、とでも言えそうな空気に揉まれて北門を出る

「自然詠」から「写生」について考えさせてくれる作品でした。
川上さんの「五歩先くらい」「流れているからだろう」といった部分に強く表れているんだけど、自然の風景を肉眼で見るということは、明瞭に見えないことでもある。
大森さんは自然詠に詩情をぶっこみながら「たぶん」「とでも言えそうな」と断定を避けて仕上げている。肉眼で見た曖昧な自然とクリアな想像とを馴染ませるためのグラデーションとしての「たぶん」「とでも言えそうな」なのかもしれない。(断定を避けてみた。)

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