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俊読2017報告

2017年4月30日、谷川俊太郎トリビュートLIVE 俊読2017に出演しました。
原宿クロコダイルに駆けつけてくださった友人たち、先輩方、本当にありがとうございました。
東京のライブハウス(そう、この響き!東京の!ライブハウス!)で、緊張のあまり本番前の打ち合わせで笑いの発作に襲われたりしながらも(当然、司会進行の桑原滝弥さんに突っ込まれた)なんとか無事にパフォーマンスすることができたのは、知ってる人いっぱいいるしこの会場実質全然アウェーじゃなーいー! という心の支えがあってこそでした。
そして、すばらしい職人技を見せてくださった共演者のみなさん、主催者の桑原さん、スタッフさん、ご本尊(!?)谷川俊太郎さん、ありがとうございました。


 

 

今回取り上げた作品について。
『おばあちゃん』谷川俊太郎・文/三輪滋・絵
わたしが手に持っていたのは2016年にいそっぷ舎から出版された復刻改訂版の絵本で、オリジナルは1982年にばるん舎から出たものです。
(ちなみに1982年といえば、わたしの祖母が「おばあちゃん」になった記念すべき年。)
認知症で寝たきりのおばあちゃんのことを孫の視点から語った本文にシュールで不穏な絵がついています。
なぜこの作品を選んだかというと、祖母が昨年の春に他界し、認知症や介護についてすこし冷静に考えられそう、という気がしたからです。

そのあとに朗読した自作の詩「祖母のパイナップルジュース」は、2007年ごろ「詩のボクシング」で発表した「祖母ジュース」が元になっています。

長年わずらった糖尿病の悪化により
祖母の尿はパイナップルジュースになりました

憑依系俳人としてはここまで自分自身の体験を元にしたものを発表するのはけっこうレアかもしれない。
谷川俊太郎さんにも笑っていただいて、お客さんに休憩中や終演後に声をかけていただいて(ご自身も朗読される方がたくさんいらっしゃってた様子。あと、「わたしも腐女子です!」と明るく宣言して庫内灯のフライヤーを取りに来てくれた方!)10年分くらいのちやほやをもらって岡山に帰りました。

緊張で記憶が飛び飛びなので出演者限定の記録映像が届いたら他の方のパフォーマンスをちゃんと見たいです。

 

↑内容はビターきわまりない。お父さんとお母さんの年齢差が気になる。同じコンビの『せんそうごっこ』もおすすめ。

↑主催者桑原滝弥さんが詩を書いた夫婦がテーマの写真集。贈り物によろしいのではないかと。

往来させるもの−五十嵐秀彦第一句集『無量』を読む

「直喩」は意味において、「対句」は文章構造において、ともに言葉の類似を示唆するものであると考えられているが、五十嵐秀彦の創作では、類似のあり方が一筋縄ではいかない。
本論ではそのふたつの修辞法を掘り下げ、独特の魅力に迫っていきたい。

一、直喩

五十嵐秀彦第一句集『無量』には比況の助動詞「ごとし」を用いた直喩が十回登場する。直喩は通常、類似点を指摘することで対象をイメージしやすくするために用いられる。しかし、この句集では一見類似点のないような意外な言葉が「ごとし」で結ばれて直喩として差し出される。

遊星のごとき君らの薄暑かな

「遊星のごとき君ら」とは、公転・自転する複数の遊星(惑星)のように楽しく遊び回る少女たちだろうか。なぜ少女かというと、西東三鬼の「おそるべき君等の乳房夏来る」を連想するからだ。三鬼の句のイメージも重なって、外で遊び回っている少女たちは薄着で元気いっぱい、それを見ている作中主体は初夏の暑さに早くも疲れてしまっているように感じる。
二〇一三年の初夏はきゃりーぱみゅぱみゅの服装を真似た若者がピンクやブルーの髪をして街を闊歩していた。「遊星のごとき」という表現からは、全く違う価値観の若者を目にしたときの、違う惑星に来てしまったような違和感を読みとることもできる。

月照らす机上流砂のごとき文字

砂漠に描かれた不明瞭な文字。風が吹けば消えてしまいそうだ。「月」と「流砂」から連想するのは童謡「月の砂漠」のような世界。そのイメージを受けて「流砂のごとき文字」を想像すると、右から左へさらさらと書かれたアラビア文字が思い浮かぶ。月光の差す机上で自分の書いた文字が(それはなぜか見知らぬ異国の言葉で)書いた側から風紋のように形を変えていく。
あるいは、手書きの文字ではなく一瞬で形を変えるコンピュータのテキストデータかもしれない。月光とディスプレイの青白い光は似ている。また、初代キンドルなど実際に砂(砂鉄)を用いて文字を表示するタイプの電子書籍リーダーを詩的に表現しているのだと考えても面白い。

若水の謀議のごとく流れおり

ただの水に、それも本来おめでたいはずのものに「謀議のごとく」と言ってしまうのは大げさすぎるように感じる。何がこの作中主体を神経過敏にさせているのだろう。仮に作中主体を正月行事のとりしきりを任された年男だと考えてみよう。元旦の厳粛さと華やぎに包まれた古い家で、しきたりに従って正月の行事をこなしながらふと感じた不安感。家長としての責任を立派に務めようとするあまり、些細なことにまで過剰に反応してしまう生真面目な男の姿が思い浮かぶ。

二、対句

対句は、類似の構造をもつふたつの言葉を重ねて用いる修辞法である。対句もまたこの句集に頻出する特徴的な表現であると言える。俳句は十七音の非常に小さな形式の詩であるため、通常は言葉の重複を避けがちである。五十嵐秀彦が対句という重複を含む表現を好んで採用しているという点には強い意図が感じられる。

天道虫あこがれやすく死にやすく

あこがれることと死ぬことは一見遠いように思える。しかしこの句ではあこがれやすさと死にやすさが同時に成立すると言う。天道虫は、ここでは若さや幼さの暗喩だろう。たとえば青春期、強すぎる憧憬のために自ら死を選んでしまうというようなことだろうか。「愛(エロス)」と「死(タナトス)」と書けば単純すぎるが、愛を「あこがれ」にシフトすることによって常套句を回避している。

外套をまとひちひさき闇まとふ

外套をまとうということは小さな闇をまとうというということなのだ、と言っている。ここでは対句はイコールの関係で、ひとつの行動がもつ二種類の意味を書くために用いられている。外套を着て歩いている人々は、それぞれ外套の中に小さな闇をまとっている。それはひとが抱えている苦しみや悪意など暗い感情の比喩でもあるだろう。

夜に還る隧道を抜け冬を抜け

いただきし鱈さばくともあばくとも

靴底の雪剝がし黙剝がしけり

といった句も、ひとつの行動がもつ二種類の意味を書いていると言える。

秒針の速度牡丹雪の速度

この句は対句表現だけで一句が成立している。「秒速5センチメートル」というアニメーション映画がある(新海誠監督/二〇〇七年)。「秒速5センチメートル」は桜の花びらの落ちる速度を表しているそうだ。牡丹雪の速度は秒速何センチメートルだろう。秒針が動く速度と牡丹雪が舞い降りる速度を思い描いているうちに、速度よりもそれらが絶え間なく続いていくことを意識させられる。
似た構造をもつものとして、

赤とんぼ無数失踪者無数

という句がある。「赤とんぼ」は可視的な存在。「失踪者」は不可視の存在。ふたつを並べることによって失踪者が変化したものが赤とんぼなのではないか、とも思えてくる。
これらの句では、「秒針」と「牡丹雪」の取り合わせ、「赤とんぼ」と「失踪者」の取り合わせを対句として行っていることになる。

蝶有罪あるいは不在雨あがる

「有罪」の対義語は「無罪」だが、対として選ばれたのは「無罪」に近い音をもつ「不在」だ。「無罪」の気配をただよわせつつ「不在」と言ってしまうところに自嘲のような諦めのような感情が感じられる。無罪放免となったのではなく、有罪でありながらもうそこには存在しない蝶。事件は解決したもののルパン三世を取り逃がしてしまった銭形警部のようである。

三、直喩と対句のもたらすもの

五十嵐秀彦はあとがきにおいて「私の俳句はそんな具合に(古代と現代、あの世とこの世の)両界を往来しているように思う」(括弧内筆者)と記す。
この「往来」は俳句の意味内容によるものを指しているが、「直喩」や「対句」は構造の上で読者の意識の「往来」を促している。
意外な言葉を「ごとし」で結んだ「直喩」によって、読者は喩えるものと喩えられたものの間の類似点相違点を探しながらふたつの言葉の間を往来する。
対句もまた、対になったふたつのものの間で読者の意識を往来させる。そもそも対句は言葉の変奏による繰り返しであり、往来する構造そのものと言える。
ふたつのものの間を幾度となく往来するうちに、様々な解釈の可能性を得て、イメージは重層性を帯びていく。句会などで「景がひとつにしぼれない」ことがその句の欠点として指摘されることがあるが、この句集に関しては、むしろそれこそが魅力である。
本句集の表紙には、雪原の向こうへと続いていく足跡が色鉛筆の素朴なタッチで描かれている。その足跡はまるで「この無量の可能性を秘めたイメージの大地を、どうぞ、楽しく彷徨ってください」と読者に誘いかけているかのようだ。

『逸』第33号(2014年3月31日発行)掲載

【報告】「ことばや俳句と遊ぶ会」を開催しました

2017年4月9日(日)、BL俳句誌「庫内灯」スタッフによる「ことばや俳句と遊ぶ会」を開催しました。
会場は岡山県立図書館。当初の予想を上回る9名の方が参加してくれました!
いちばん遠くから来てくれた方は新潟から。ありがとうございます!!!

(内容)
打越マトリクス(季語から連想し、取り合わせにちょうどよい距離間の言葉を探すメソッド)
・音韻に凝った俳句かっこいいよね!の話。
・ちょめ俳しせ俳クイズ(著名俳人の作品と市井の俳人の作品を振り分けるチーム対抗戦)
・俳句カードゲーム(佐藤文香・石原ユキオセレクトの俳句カードにBL俳句の札を追加)
・袋回し(回ってきたお題でスピーディーに作句)

会場のようす

打越マトリクス

司会進行は「庫内灯」初代編集長佐々木紺
石原は「ちょめ俳しせ俳クイズ」のみ担当し、あとはたのしく遊んでおりました。

イベント終了後はEXCAFEさんに移動し、二次会を行いました。
「紙を回しながら食べやすい料理」という無茶なリクエストに応えてもらったー!

写真はdyngnさんの撮ってくださった袋回し中のわたくしです。

dyingさんの写真のサイトはこちら↓
ほやのえ

このイベントは佐藤文香『俳句を遊べ!』を大いに参考にしました。ぜひ読んでみてねー。

手紙魔まみ、ゆゆのおるすばん

手紙魔まみ、ゆゆのおるすばん

皆既日蝕。兎の尻を抱きしめる
はるいちばん薬袋に貼る切手
ゆゆです。姉は出掛けています。春の星
あたたかし盗聴器のようなタンポン
銀河系共通言語シャ・ボンダ・マ
ゆゆの苺、つぶさないでって云ったはず
ゆゆの髪、洗わないでって云ったはず
宇宙船。ほら。虹色が非常口。
重力の弱い地球へ桜しべ
黴び方がとても上手ね、まみの爪
風は死んだの。虫歯、こじらせて
水中花とミジンコたちの愛でした
油蝉があれば海まで行けたのに
妹型昼寝装置としてゆゆは
マリリンのM まみのM MM忌
つけまつげにささる来世の流れ星
甘噛みの、まみの歯形の、腐る桃
糸電話料金未納通知かな
マンホールの蓋がつめたい朝ですね
ばつ、くちづけ、ウサギのくち ×××

小料理いしはら

小料理いしはら

取り皿のいちばんうへに豆の花
月朧ジップロックを揉みに揉む
すりこぎのひこばゆるまでひとを恋ふ
前掛けがハンカチがはりなのは内緒
春の果て白身魚を白くせり
きもぐれんすつらぐれんすと泣きにけり
巻き簾干しませ虹のあるうちに
舌を透くべつかふ飴や桜桃忌
「別れたら蠅取リボン換へにきて」
だし巻きに巻かれる前や大夕立
歌ふのは嫌ひおくらの揚げ浸し
刃を入れてくらげに水とそれ以外
「ささがきにされたいやうな汗疹です」
「後朝の毒消売はゐないのよ」
月涼し菜箸の先ささくれて
仏蘭西へ泳いでゆける割烹着


「フィクションのなかの食」アンケート企画より

みのはちのすせんまいぎあら春愁  榮猿丸『点滅』

ミノ・ハチノス・センマイ・ギアラはホルモンの部位名。牛の第1胃から第4胃までを列挙している。ひらがなの丸い形状は臓物の丸みそのものだ。薄桃色と灰色の生肉に囲まれた憂鬱。「よっしゃ焼肉食うぞ!」という高揚感はすこしも感じられない。

すいくわバー西瓜無果汁種はチョコ
鶏唐揚に敷いてパスタや夏の暮

榮猿丸は、日常生活で見過ごしがちな風景を巧みにすくいあげる。彼の食の句はなぜかいつも美味しくなさそうな気配を漂わせていて、面白い。


初出『別腹』第七号(平成二十六年五月五日発行)

4/30(日)俊読2017に出演します!

谷川俊太郎さんの作品を詩人・アーティストがカヴァーするイベント「俊読」、
なんと2回目の出演が叶うことになりました。
東京近郊の方もそうでない方も多少を無理をしてでも是非お越しください!

(プロフィール写真は葉ね文庫葉ねのかべ」のときのだよ)

谷川俊太郎トリビュートLIVE
「俊読 2017」

2017年4月30日(日)
開場 18:00 開演 19:30 (終演 22:30)

◇出演
谷川俊太郎
文月悠光
猫道(猫道一家)
石原ユキオ
カワグチタケシ
西田夏奈子
吉田和史
もり
桑原滝弥

◇料金
予約 3500円 当日 4000円 (税込。飲食代別途必要)
※当日は満席が予想されます 。早めのご予約・ご来場をお勧めします。

◇会場
クロコダイル (東京都渋谷区神宮前6-18-8 ニュー関口B1F)
TEL:03-3499-5205
http://www.crocodile-live.jp/

◇ご予約・お問い合わせ
詩人類
TEL:090-8545-2708
takiyakuwahara@yahoo.co.jp
http://shijinrui.blogspot.jp/

俊読2017フライヤー表 俊読2017フライヤー裏

おそいおそいおそい詩

 

2016年7月29日-30日に開催されたTOKYO ART FLOW
おそいおそいおそい詩」という作品(連詩)に参加させていただきました。

夜景プロジェクト−マゼンタナイト−「おそいおそいおそい詩」
アーティストの髙橋匡太が商業施設、街路灯など街を巻き込みながら夜の風景をテーマカラーのマゼンダ色で染めていくプロジェクト。
詩人の集まり「oblaat(オブラート)」とのコラボレーション。一文字ずつの連詩で書き上げた詩を繋いでいく作品です。
髙橋匡太+oblaat(山田 亮太、河野 聡子、石原 ユキオ、髙塚 謙太郎、中家 菜津子)

1文字を30分立体駐車場の壁面に投影し、三夜かけて18文字の詩を発表。
詩を作る段階からして1日1文字ずつ交代で書くという超スローペースでした。

わたしが書いた数文字中の1文字、目。

壁に投影される詩を全文読むのはかなり難しかったと思います。(通い詰めて全部読んだひとがいたらすごい。)
ほとんどのひとが、途中から途中までしか見られない。
前はどんな字が出たんだろう、次はどんな字が来るんだろう、と推理してくれたひとの中に、無数に詩が存在しているということがこの作品の面白いところであるし、途中から途中までしか体験できないって人生そのもののようだね、と思ったりして、夏の夕方にしみじみとした気分になったのでした。

(会場に行ったひとのツイートを見ながら。)
(岡山の自宅で。)

かばん6月号を読んでます(2)

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つづきです。前回はこちら

●「かばんゲストルーム」は俳人の福田若之さん。
タイトルが「題名に似て置き去りの蛇の皮」。題名も一句と数えれば13句の連作。禍々しい、陰鬱なイメージでいくのかと思ったら、最後の二句でふっと明るくなってすっきりとした読後感、というところに意外性があってよかった。

胃のなかに六月の煮崩れた街  福田若之

蛇モチーフを踏まえて読むと、やはり蛇の胃袋なのだろう。
人間の胃袋の内容物は咀嚼されたために元の形を保っていない。
蛇は丸呑みするから、蛇の吐いたネズミなどはまさに「煮崩れた」ような状態で出てくる。ちなみに吐き戻されたピンクマウスはこんな感じだそうです(リンク先のページ、スクロールして真ん中あたり)。
「煮崩れた街」は、それでも「街」だったとわかるだけの形を保っていそう。

脱ぐと時間をずれていく蛇ずれていく  福田若之

皮の中を蛇のからだが動いて模様と模様がずれながら脱皮していく。繰り返される「ずれていく」が伸び縮みの動きを繰り返す蛇の姿を思わせる。俳句による蛇の形態模写みたいで面白い。

さっき雨脚をぜんぶ自分で捥いでかなぐり捨てた虹だ  福田若之

空まで脱皮してる!

●評論ののぞき穴——あなたの書き方、教えてください!——
これは、評論やコラムでスランプに陥ったときに繰り返し読みたい特集でした。

評論を書くときは「歌書プラスワン」をルールとして意識している。学術書なり短歌外の作品なり、論じるテーマと同時代を表象した資料を一つは入れることで、批評の骨格が立体的になることを知ったのである。

山田航「評論の方法論が確立するまで」

(頑張れそうなときは)真似しようと思う。

また、飯島章友さんの「過ぎゆきにヘッドロックをかけられる」は、五年前に執筆した小論の反省。「うまくいかなかったパターン」を教えてくれるひとはなかなかいないので貴重な視点。
「労働・職業」の歌として引用した、

息つまるヘツドロツク、はつと思ふまにどたりといふマツトのひびき  前田夕暮『青樫は歌ふ』

は、プロレスではなくて十中八九アマレスだと思ってたから本当は「職業」の歌としてふさわしくなかった……という告白、ちょっと笑ってしまった。

特集の執筆陣による「評論七つ道具」はかなり具体的で今日から使えるアイデアに溢れています。
東直子さん「ポスト・イット ジョーブ透明見出し 44×6mm」。透明ふせん流行ってますね。
高柳蕗子さん「ネコ」「こたつ」この二つは個人的には諸刃の剣だと思っております。
久真八志さんおすすめの「Evernote」はわたしも愛用しています。共有設定にできるので、資料を共有したり、アイデア出ししたり、共同制作にすごく便利。最近1アカウントを3台以上(例:自宅PC・職場PC・スマートフォン)で同期するユーザーは有料になりましたが、有料で使う価値はあると思う。

ところで、こんな楽しい「かばん」にわたしの書いたものも載っております。
特集「酵母と桜」に「歌の外を見ない歌論」と題して高柳蕗子著『短歌の酵母』評を寄稿したのであります。
「歌の外を見ない評論」ってまるでディスってるようなタイトルですが、高柳蕗子ファンとして「短歌の酵母はいいぞ! 最高だぞ!」という話を「BL短歌」や『共有結晶』に言及しながら書きました。

“わたしはつねに腹を立てながら短詩型文学に関わってきた。”

“誰の人生も消費しない短歌評論が可能だという事実は、他人の人生をワイドショー的に詮索する鑑賞態度に違和感を覚え続けてきた者に勇気を与えてくれる。”

このあたりはわかるひとには「あああああー……↓↓↓」と共感していただけると思います。

かばん取り扱い書店

かばん6月号を読んでます(1)

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特集「酵母と桜」に寄稿させていただいた『かばん』2016年6月号から気になった短歌を。

いつもよりちょっと悪い子になる薬 ルームサービスのきつねうどんは  うにがわえりも

「いつもよりちょっと悪い子になる薬」までなら昭和の、ちょっとエロい歌詞をカマトトな態度で歌うタイプのアイドルソングみたいな言葉選び。「ルームサービスの」で、ふむふむ、実際の薬物じゃなくて比喩なのね、シャンパンかなフルーツかな、と思わせたところに「きつねうどん」でうっちゃりをかけるセンスに痺れた。なかなかこの流れで「きつねうどん」は出てこないですよ。「ルームサービスのきつねうどん」というとラブホテルの小窓から差し入れてドンと置き去りにされる、伸び切った、あるいは部分的に凍ったままの絶望的なきつねうどんしか思い浮かばないのだが、どうやったらそんなもので悪い子になれるのか。悪い子ってどういうのが悪い子なの。物事の捉え方のおかしい感じ、状況のわからなさが逆にいい。

履歴書の四角いところ三センチくらいの笑顔だけ貼りつける  藤島優実

「履歴書の写真貼付欄に三センチくらいの笑顔の写真を貼りつけた」ということではなく「履歴書に写真を貼るみたいに(うわべだけの)笑顔を作ってみせた」ということなのでしょう。普段「四角いところ」と言うときに長細い形ではなく真四角に近いものを指して言ってるんだなということに気づかされる。就職活動を想起させるんだけど、魂までは売り渡してない、と同時にその場に器用に順応することもできてないような。

祖母が遺していった薄手のシャツのなかでまだペイズリー柄が動いています  小坂井大輔

そうなんだよね。ペイズリー柄って動くんだよ。うちのもわりと動く。

<黒王子>。<白王子>との関係と見なしてしまう。「腐ってやがる」。  ミカヅキカゲリ

※「関係」に「カップル」とルビ
言わずと知れたことですが「腐ってやがる」は『風の谷のナウシカ』に出てくる台詞で、ネットスラングとしては「腐女子/腐男子」に対しても使われる言葉。「腐ってやがる」は説明的に思えてしまうけど、「黒王子」と聞いたら黒王子×白王子という構図を自動的に妄想してしまうことに関しては共感せずにはいられない。

モザイクの向こう側にはあるだろう図鑑に載っていない性器が  谷川電話

「図鑑に載っていない」がすごい。モザイクの向こう側の性器を想像することはあっても、そこに「図鑑」というものを持って来れるなんて。「モザイクの向こう側」の「性器」は性的な欲望を向けられるものとしてあるはずなのに、「図鑑」によって「性器」が虫や魚や植物みたいなものと並べられて、性欲から少し遠ざかる。(逆に、現実に図鑑に載っている動植物は性器そのものと言えるのではないか、とも考えてしまう。)性器に関して、図鑑に載っていない虫を追い求めるようなまっすぐな探究心を向けるひとというのを想像するとちょっとおかしい。

猫だけが入れる扉のからんころんこの世ですこしかみさまに流行る  柳本々々

壁の下の方に設置された小さな猫ドア。神様が猫ドア鑑賞をしてるんじゃなくて、猫ドアを出入りしてると考えた方が面白い。多神教だとしたら「あの、猫用のやついいっすよ」「まじ? いつも適当に壁抜けてたわ」「いやあ、あのからんころんが最高なんすよ。つぎ人間界行くときぜひ。猫の背中に乗ったまま通るのがまた良くて〜」みたいな神様同士の口コミがで流行が広がったはずだ。一神教の神様のマイブームを「流行る」と言っているのだとしてもそれはそれでかわいい。ところで猫ドアって「からんころん」って音がするんでしょうか。製品によっては鳴るのかな。「からんころんこの世」という連なりが心地よい。

薔薇食めば薔薇に骨あり骨吐けば銀河宇宙や食はさびしゑ  睦月都

あー! 彗星の尻尾で魂を洗われるような耽美感! きもちいい!
薔薇の骨は魚の骨みたいな骨なんだろうか、それとも獣の骨みたいな骨なんだろうか。どちらかというと獣の小骨っぽいような気がする。宇野亜喜良の絵柄で脳内でアニメーションにしました。「食はさびしゑ」って、食べ物らしいもの食べてないのにそれを「食」と呼んでいる、この、霞食って生きてる感じ大好き。「ゑ」がね、これ自体が口から出てきそうな字ですよね、ペッてしたとき。

明瞭に見えない自然

『岡大短歌4』に寄稿しました。
山田成海さんとのコラボで往復書簡と短歌連作を制作。
タイトルは「こゆびくんとやくざくん」。

灰皿の中身のような街でまたベビーカステラ買えるだろうか (山田成海 as こゆびくん)
マシンガンみたいな雨を聞きながらヨド物置で頓服を噛む (石原ユキオ as やくざくん)

大森静佳さん(ゲスト)と川上まなみさんの往復書簡と短歌連作も載ってます。
こちらは「口語での自然詠」がテーマ。

暗いけどそこには海があると分かる 五歩先くらいが波際のところ  川上まなみ
川に落ちた街の明かりの動くのは川の流れているからだろう

光の奥にひかりはあって、白梅はたぶん盲目の花なんだけど  大森静佳
粘着質な夕暮れ、とでも言えそうな空気に揉まれて北門を出る

「自然詠」から「写生」について考えさせてくれる作品でした。
川上さんの「五歩先くらい」「流れているからだろう」といった部分に強く表れているんだけど、自然の風景を肉眼で見るということは、明瞭に見えないことでもある。
大森さんは自然詠に詩情をぶっこみながら「たぶん」「とでも言えそうな」と断定を避けて仕上げている。肉眼で見た曖昧な自然とクリアな想像とを馴染ませるためのグラデーションとしての「たぶん」「とでも言えそうな」なのかもしれない。(断定を避けてみた。)

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