Papa, hold me.

30代後半の女性が20代の夫との間に娘を授かり
産後すぐに亡くなり
若く美しい夫を愛するあまり
その魂は娘に憑依して
表面上は夫のことを「お父さん」と呼んでいるけれど
中身はおとなだからものすごいおませさんで
拗ねたりもするけど概ねききわけがよく
70〜80年代あたりのSFにほとんどマニアックなほど詳しい
という話として
榛野なな恵の『Papa told me 〜私の好きな惑星〜
を読んだので
知世ちゃんはときどき
お父さんの飲み物に睡眠薬を仕込んで
お父さんの身体にいたずらとかしてるんじゃないかと
むしろわたしがしたいと
思いました
 
 

あのルドンを貼っておきます。

この本の、

109ページにある、

60棒109ページ

この部分。
わたしがツイートしたコラージュ画像を見て関さんが詠んだ俳句が載ってます。

元になったコラージュは、これ↓

さぬきルドン

さぬきルドン。
元の画像を知らないひとが気になってるかもしれないので。
後世の研究のために保存しとくとよいよ!

実は60棒にはツイートを元にした俳句が他にもいろいろ載ってる。
詞書(ことばがき)として、元になるツイートが添えられて。

《ぼくは一年前から機会あるごとに言い続けてきたんだが、意外と知られていないんだな。Twitter=神への長い道説。》東浩紀氏のツイート
超未来の言語の《我》や囀れる

ツイートという言葉そのものも、何度か登場する。

世界中とtweet僭主追放成る

※”tweet”に”さへづり”とルビ

(ああ、そうか。句集とは、俳句をトゥギャったものなのだ。)

ざぼん漬がない

旅館の売店にざぼん漬がないなんてまったく来た甲斐がなかった。
フェリーで帰ろうとするのだけど、切符を買うのが間に合わなかった。
このあたりの若い女性は、ヘルメットとプロテクターをきちんとつけて、インラインスケート状の靴で通勤するという。
スケートボードよりこまわりが利くし、いいかもしれない。
高架下がきれいに整備されている。

ふさいでいても伸びる爪は

 
山の上を歩いている。
谷という谷から花火が上がっている。
上にも下にも花火が見えるから平衡感覚がおかしい。
おまけに浴衣に下駄だから歩きにくい。
めまいにおそわれて倒れ込むと、
死者がおおいかぶさってきてぬるりと手が入った。
唇が動く。
 
「お・か・め・い・ん・こ」
 
おかめいんこではない。
わたしの卵巣だ。
 
 

伝統野菜

温泉にはすべりだいをすべって入る。
タオル専用レーンと水着専用レーンが分かれており、水着の上にタオルを巻いたわたしはどちらでも利用できるが、行き着く先の温泉はひとつ。
傾斜をすべって勢いよく湯に浸かり、スイムキャップをかぶっていなかったことに気づく。
 
洗濯してしまったので服がない。
チアのユニフォームを着る。
ユニフォームは赤系だが、ソックスは黄色系しかない。
しかしこれはこれで悪くない。
 
刈田に見覚えのあるこどもが遊んでいる。
小学校低学年の男の子。
先日わたしは彼の兄が顔白菜を植えるのを見た。
やがて彼は幼い頃の兄の顔にそっくりの、自分の顔にそっくりの、ふくふくとした顔白菜を収穫することになるだろう。

『さよならバグ・チルドレン』のヒドさについて

こんばんは。ヒド歌評論家の石原ユキオです。作中主体(男性)が女性に対してヒドい言動をおこなう短歌のことを「ヒド歌」と呼び、蒐集・鑑賞することを無上の喜びとしております。

さて。山田航第一歌集『さよならバグ・チルドレン』の中にヒド歌はあるでしょうか。

やや距離をおいて笑へば「君」といふ二人称から青葉のかをり
てのひらをくすぐりながらぼくたちは渚辺といふ世界を歩む
翼なきふたりそれでも一対の薄き翼でありたし永遠(とは)に

青春ですね。「きみ」「ぼく」「ぼくたち」「ふたり」といった言葉で描かれる恋は、すこしぎこちないけれど、とてもやさしい雰囲気。残念ながらヒドくない。作中のふたりの幸せを願わずにはいられません。しかしここで引き下がってはヒド歌評論家としてのわたしの名が廃ります。どこかにヒドさを見つけなければ!

フランスパン輪切りしながらわかつてる君が誰よりがんばつてること

やっと見つけました。この歌はヒドいと言えるのではないでしょうか。「NIJNTJE(ナインチェ)」と題された八首の連作のうちのひとつです。

ナインチェ・プラウス 横顔は無く本当にかなしいときは後ろを向くの
ミッフィーが無敵を誇るにらめつこ大会けふも君の部屋にて

ナインチェ・プラウス(=ミッフィー)の大好きな彼女。感情を表に出すことの少ない人物であるように思えます。「にらめつこ大会」は楽しい遊びではなく、彼女と彼がどう言葉にしていいかわからない気持ちを抱えて黙り込んでいる状況でしょう。

すこし風に乱れた髪とリクルートスーツの君が抱く白うさぎ

彼女は就職活動中。「白うさぎ」と言われて思い浮かぶのは、ぬいぐるみではなく生きているうさぎ。疲れ果てて帰ってきた彼女はスーツに毛がつくのもおかまいなしに、癒しを求めるようにペットのうさぎを抱き上げる。そんな光景のすぐ後に置かれたのが、「フランスパン輪切りしながらわかつてる君が誰よりがんばつてること」です。
部屋の隅の小さなキッチンで二人ぶんのパンを切りながら、彼女が誰よりがんばってると信じる彼。けなげではあるけれど、彼女と対話することで生じる軋轢を避けているようにも見えます。この「誰より」というのがヒドい。「誰より」だなんて実際にはあり得ないし、なんの根拠もない。真に彼女の気持ちを慮っているなら出てくるはずのない言葉です。就職活動はストレスの溜まるもの。ミッフィーの口が開いたときに飛び出す言葉は、彼に対する罵詈雑言かもしれません。一見やさしい彼のようですが、自分が傷ついてまで彼女を癒す気はないのでしょう。よけいなお世話を承知で言いますが、きみたち、もっと話し合ったほうがいい。

君といふ小箱の内に満ちてゐる真水に嘘は溶けてゆくんだ

この歌もなかなかヒドい。「君」のついた嘘でしょうか。それとも「僕」のついた嘘でしょうか。どちらにしても、「君」のなかにある純粋なものが嘘によって汚されていくイメージ。嘘そのものにヒドさは感じません。ヒドいのは「真水」という決めつけです。水質検査でもしたのか。わたしの内に満ちている水なんか、仮に真水だったとしても、ミカヅキモとゾウリムシとアオミドロがびっしり詰まっててドロッドロです。少々の嘘くらい餌にしてしまいます。結局この作中主体は「君」をきれいなものとしてちょっと離れたところに置いておきたいのではないでしょうか。そんな関係で本当にいいのですか。ともに泥水を飲み合ってこその恋愛でありませんか。やっぱりきみたち、もっと話し合ったほうがいい。

噴水に腰かけ授乳してゐたる女はみづのつばさをまとふ

噴水からの連想がはたらいて哺乳瓶ではなく胸をはだけて授乳しているように読めます。場所は公園でしょう。重い乳児を抱えて座るには噴水の縁は不安定すぎるのでは。誰もベンチを譲らなかったのでしょうか。現実の道具立てを用いながら現実にはなかなか存在しない美しすぎる世界が描かれているような気がします。天使のように、あるいは聖母のように、過剰に美化された母性。女性をこんなふうに見ている男は子育てに参加しなさそうです。現実に目を向けるために、翼の正体を顕微鏡で観察してみるといい。きっとミカヅキモとゾウリムシとアオミドロがびっしり詰まってて……くどいですか。すみません。

こうして見ていくと、山田航短歌に登場する男のヒドさは、一見やさしそうに見えて対象との衝突が起きないように身をかわしている点と言えるでしょう。女性は美しい別の生き物、みたいな感覚。キュンとするようなきれいな世界が描かれていますが、恋人にはしたくないタイプの作中主体です。わたしにとっては。

あ、例外が一つありました。

揺すつたくらゐぢや起きないきみに捧げよう目覚めのための濃き一滴を

強制モーニングフェラからの口内発射。こういう遠慮のない男、嫌いじゃない。

初出『かばん』第29巻第9号(2012年12月1日発行)

◆

山田航氏のブログはこちら→トナカイ語研究日誌

狙撃

狙撃

狙撃

浴槽に手足かさなる霜夜かな
狐火に微笑み方を教へらる
しぐるるや棺の中にある隙間
やむを得ず被写体となる蒲団かな
トランシーバーまづ咳を伝へけり
「五秒後に鼬が現れるぞ、撃て」
死相とは眠さうな顔かへり花
爆風にレザーコートは翻らず
大いなる砕氷船の図面かな
消音器あるいは水鳥のあくび

週刊俳句(2012.11.18)

とりはむ石材

とりはむ石材というのは地蔵をご神体として崇めるカルト教団である。地蔵は奪ってきたものでなければならず、窃盗ではなく強盗が望ましい。とりはむの暗躍により銀行の貸金庫に預けられている地蔵はあらかた奪われてしまった。教祖は世界各地を転々と逃げ回っており、説法の映像がUSTREAMで配信される。世界中に信者を増やすとりはむ石材であるが、教典をもたないために教義は非常にあいまいであり、最近では地蔵という概念が理解できず顔つきのディルドなどを地蔵と見なして強盗する信者も現れた。
 
とりはまー とりはみぬす ぬー
 
(われらに地蔵のご加護がありますように。)

高級な自転車

森さんの家の一階は車庫になっていてコンクリート打ちっぱなしである。安藤忠雄的なものが好きな森さんのことだから、その上の居住空間もコンクリート打ちっぱなしなのであろう。スーツをきちんと着た若い男性が出て来て兄はそろそろ帰るはずですと言う。森さんはわたしより十ほど上、森さんと弟さんはずいぶん年齢が離れているのだ。丁寧に言葉を選びながら弟さんと話していると、森さんが高級な自転車に乗って帰宅。あんなに攻撃的だったひとが、皮肉ひとつ言わず、ひたすらおだやかににこやかに応対してくれる。年月はひとを変える。ふと足元を見ると、森さんの弟は鉢植えの隅で両手をひろげる小人の置物になっているから、ひとが変わるのに年月は関係ないのかもしれない。