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「BLな俳句」のこと

 
腐女子なの?

と聞かれると返答に困る。

たとえば、いま現在「TIGER&BUNNY」「黒子のバスケ」「進撃の巨人」、といった特定のジャンルが好きで同人誌を集めたりイベントに参加したりしているわけではないから。

かといって、ボーイズラブのカテゴリに入るものに興味がないかというとそんなことはなくて、美しい男性二人が主演の映画があったりするととりあえず観ておこうかという気になるし、李博士やピンクフラミンゴを知るきっかけになったのは小野塚カホリだし、愛用のトートバッグは高畠華宵プリントだ(残念ながら女性像だが)。

微妙な感じが説明しづらくて「腐女子です」と言ってしまうこともあるが、心の中でなんとなく謝りながら使っている。
わたしなんかが腐女子を名乗るのはおこがましいと思ってるんです。でも便利だから使っちゃう。ごめんなさい。夜道で突然コピックを嗅がされて意識失ってるうちに簀巻きにされてお台場のへんから海に投げ込まれても仕方がない。
たとえば熱心な腐女子が艶やかに腐乱したロメロゾンビだとしたら、わたしは「28日後…」に登場するレイジウイルス感染者みたいな半チクである。
(こういう、腐っているようないないような、中途半端な状態が15年ほど続いている)

ところで、昨年、Twitterで#BL短歌というタグが流行した。※

BL短歌ブームは俳句クラスタにも波及し、#BL俳句というタグが登場したが、BL短歌タグが実作メインなのに対し、BL俳句タグには「この俳句がBL読みできる」という既存の俳句が多く寄せられた(このあたりの経緯は松本てふこさんの俳句時評をご覧ください)。おそらくはこのTwitter上の盛り上がりがきっかけになって、ふらんす堂通信で関悦史氏の「BLな俳句」という連載が始まった。

『ふらんす堂通信』136号に掲載された「BLな俳句」第一回では、

怒らぬから青野でしめる友の首  島津亮『記録』
かたつむりつるめば肉の食ひ入るや  永田耕衣『驢鳴集』
抱かねば水仙の揺れやまざるよ 岡本眸『十指』

といった俳句が紹介されている。

「怒らぬから…」の評を一部引用してみよう。

「青野」は夏の季語。両者の若々しさをいやが上にも暗示しますが、それだけではありません。この語があるから、二人は正面から向かい合って立っているのではなく、語り手が友を組み伏せているのだとのイメージが強まるのです。
草いきれに包まれつつの激情と密着。それは深い交歓の図以外の何ものでもありません。

おお。そうだったのか関さん!
ちなみにわたしは、俳句の入門書でこの句を知って、夏草の茂った河川敷みたいなところで学生服の少年Aが少年Bの首をふざける感じで絞めてるところを想像してたよ。歩きながら。じゃれ合う感じで。「怒れよ〜」っつって。そうか、萩原朔太郎の「愛憐」みたいなところまでいってよかったのか。いっていいもなにもないけど。
「それは深い交歓の図以外の何ものでもありません」っていうのは、意識としてはもうほとんどセックスと等しいということですよね! おおお……。

「BLな俳句」では(批評としては当たり前のことかもしれないけど)なぜそれがBLとして読めるのか、厳密に俳句の中の言葉に根拠を求めて指し示す、という方針があるようだ。

かたつむりの句では「雌雄同体という特徴」があること、水仙の句では水仙の学名「Narcissus」が自己愛の果てに命を落とした美少年ナルキッソスに由来することが根拠となっている。
これは男性同士に違いない、理由などない、敢えて言うならそのほうがわたしは萌えるからだ! という強引な突っ走り方を決してしない。
この姿勢は真っ当で健全で、読むほうとしたらすごくありがたい。
俳句の批評って、「ここ強引すぎんじゃね……?」っていうのに度々出会うので。

ただ、第二回以降で、関さんのテンションが上がりすぎて、BLの匂いが微塵も感じられない句を強引にBL化して読んでいくようになったらそれはそれで面白いのではないかとも思っている。理路整然とした冷静な関さんもいいけど、荒ぶる関さんも見てみたいのだ。

共有結晶×ふらんす堂通信

※ BL短歌
@AyahSakiさん曰く、BL短歌とは「五七五七七に萌えをぶっこむこと!」
2012年11月『共有結晶』という作品集がリリースされた。
まだ手元にないひとはアマゾンでも売ってるので、買いましょう。短歌作品も対談も漫画も入ってて読み応えあります。

Papa, hold me.

30代後半の女性が20代の夫との間に娘を授かり
産後すぐに亡くなり
若く美しい夫を愛するあまり
その魂は娘に憑依して
表面上は夫のことを「お父さん」と呼んでいるけれど
中身はおとなだからものすごいおませさんで
拗ねたりもするけど概ねききわけがよく
70〜80年代あたりのSFにほとんどマニアックなほど詳しい
という話として
榛野なな恵の『Papa told me 〜私の好きな惑星〜
を読んだので
知世ちゃんはときどき
お父さんの飲み物に睡眠薬を仕込んで
お父さんの身体にいたずらとかしてるんじゃないかと
むしろわたしがしたいと
思いました
 
 

あのルドンを貼っておきます。

この本の、

109ページにある、

60棒109ページ

この部分。
わたしがツイートしたコラージュ画像を見て関さんが詠んだ俳句が載ってます。

元になったコラージュは、これ↓

さぬきルドン

さぬきルドン。
元の画像を知らないひとが気になってるかもしれないので。
後世の研究のために保存しとくとよいよ!

実は60棒にはツイートを元にした俳句が他にもいろいろ載ってる。
詞書(ことばがき)として、元になるツイートが添えられて。

《ぼくは一年前から機会あるごとに言い続けてきたんだが、意外と知られていないんだな。Twitter=神への長い道説。》東浩紀氏のツイート
超未来の言語の《我》や囀れる

ツイートという言葉そのものも、何度か登場する。

世界中とtweet僭主追放成る

※”tweet”に”さへづり”とルビ

(ああ、そうか。句集とは、俳句をトゥギャったものなのだ。)

『さよならバグ・チルドレン』のヒドさについて

こんばんは。ヒド歌評論家の石原ユキオです。作中主体(男性)が女性に対してヒドい言動をおこなう短歌のことを「ヒド歌」と呼び、蒐集・鑑賞することを無上の喜びとしております。

さて。山田航第一歌集『さよならバグ・チルドレン』の中にヒド歌はあるでしょうか。

やや距離をおいて笑へば「君」といふ二人称から青葉のかをり
てのひらをくすぐりながらぼくたちは渚辺といふ世界を歩む
翼なきふたりそれでも一対の薄き翼でありたし永遠(とは)に

青春ですね。「きみ」「ぼく」「ぼくたち」「ふたり」といった言葉で描かれる恋は、すこしぎこちないけれど、とてもやさしい雰囲気。残念ながらヒドくない。作中のふたりの幸せを願わずにはいられません。しかしここで引き下がってはヒド歌評論家としてのわたしの名が廃ります。どこかにヒドさを見つけなければ!

フランスパン輪切りしながらわかつてる君が誰よりがんばつてること

やっと見つけました。この歌はヒドいと言えるのではないでしょうか。「NIJNTJE(ナインチェ)」と題された八首の連作のうちのひとつです。

ナインチェ・プラウス 横顔は無く本当にかなしいときは後ろを向くの
ミッフィーが無敵を誇るにらめつこ大会けふも君の部屋にて

ナインチェ・プラウス(=ミッフィー)の大好きな彼女。感情を表に出すことの少ない人物であるように思えます。「にらめつこ大会」は楽しい遊びではなく、彼女と彼がどう言葉にしていいかわからない気持ちを抱えて黙り込んでいる状況でしょう。

すこし風に乱れた髪とリクルートスーツの君が抱く白うさぎ

彼女は就職活動中。「白うさぎ」と言われて思い浮かぶのは、ぬいぐるみではなく生きているうさぎ。疲れ果てて帰ってきた彼女はスーツに毛がつくのもおかまいなしに、癒しを求めるようにペットのうさぎを抱き上げる。そんな光景のすぐ後に置かれたのが、「フランスパン輪切りしながらわかつてる君が誰よりがんばつてること」です。
部屋の隅の小さなキッチンで二人ぶんのパンを切りながら、彼女が誰よりがんばってると信じる彼。けなげではあるけれど、彼女と対話することで生じる軋轢を避けているようにも見えます。この「誰より」というのがヒドい。「誰より」だなんて実際にはあり得ないし、なんの根拠もない。真に彼女の気持ちを慮っているなら出てくるはずのない言葉です。就職活動はストレスの溜まるもの。ミッフィーの口が開いたときに飛び出す言葉は、彼に対する罵詈雑言かもしれません。一見やさしい彼のようですが、自分が傷ついてまで彼女を癒す気はないのでしょう。よけいなお世話を承知で言いますが、きみたち、もっと話し合ったほうがいい。

君といふ小箱の内に満ちてゐる真水に嘘は溶けてゆくんだ

この歌もなかなかヒドい。「君」のついた嘘でしょうか。それとも「僕」のついた嘘でしょうか。どちらにしても、「君」のなかにある純粋なものが嘘によって汚されていくイメージ。嘘そのものにヒドさは感じません。ヒドいのは「真水」という決めつけです。水質検査でもしたのか。わたしの内に満ちている水なんか、仮に真水だったとしても、ミカヅキモとゾウリムシとアオミドロがびっしり詰まっててドロッドロです。少々の嘘くらい餌にしてしまいます。結局この作中主体は「君」をきれいなものとしてちょっと離れたところに置いておきたいのではないでしょうか。そんな関係で本当にいいのですか。ともに泥水を飲み合ってこその恋愛でありませんか。やっぱりきみたち、もっと話し合ったほうがいい。

噴水に腰かけ授乳してゐたる女はみづのつばさをまとふ

噴水からの連想がはたらいて哺乳瓶ではなく胸をはだけて授乳しているように読めます。場所は公園でしょう。重い乳児を抱えて座るには噴水の縁は不安定すぎるのでは。誰もベンチを譲らなかったのでしょうか。現実の道具立てを用いながら現実にはなかなか存在しない美しすぎる世界が描かれているような気がします。天使のように、あるいは聖母のように、過剰に美化された母性。女性をこんなふうに見ている男は子育てに参加しなさそうです。現実に目を向けるために、翼の正体を顕微鏡で観察してみるといい。きっとミカヅキモとゾウリムシとアオミドロがびっしり詰まってて……くどいですか。すみません。

こうして見ていくと、山田航短歌に登場する男のヒドさは、一見やさしそうに見えて対象との衝突が起きないように身をかわしている点と言えるでしょう。女性は美しい別の生き物、みたいな感覚。キュンとするようなきれいな世界が描かれていますが、恋人にはしたくないタイプの作中主体です。わたしにとっては。

あ、例外が一つありました。

揺すつたくらゐぢや起きないきみに捧げよう目覚めのための濃き一滴を

強制モーニングフェラからの口内発射。こういう遠慮のない男、嫌いじゃない。

初出『かばん』第29巻第9号(2012年12月1日発行)

◆

山田航氏のブログはこちら→トナカイ語研究日誌

20コキュートス

悪魔は、噺をはじめる落語家のような滑らかな所作で翼を背中から下ろし、足下へ畳んだ。
黒いジャケットを脱ぐと同時に雲がたちこめていた空はすうっと晴れわたり、姿を現した銀河はけぶるなんてものじゃなく、スワロフスキーのショーウインドウなみにぎらんぎらん瞬いている。
 
 
いつ逢へば河いつ逢へば天の川  田中亜美『新撰21』より
 
 
わたしは寝袋から出した手を伸ばし、オーケストラに指揮するみたいに揺れる尻尾を掴んでみた。

ぎくん。

一瞬の硬直。
その後、すぐに尻尾はやわらかく動き始めた。まるでなにもなかったかのように。

「起きていたのか」
「ごめんなさい」
「謝るな。余計不愉快だ」

角がひっこんでる。耳のとんがりがまるまっている。
血の気のない頬がいっそう青く見えるが、それは悪魔らしさというより貧血のひとの顔色だ。
肩に手を当てて首の骨を鳴らす姿は、ごく普通の、生活につかれた勤め人のように見える。

「目的地まであと20コキュートス」
「それって遠いの」
「きみの体重が林檎9個分軽ければ一晩で飛べる。いかんせんわたしも身体にガタがきてるからな」
「ちょっとぐらい肉がついてるほうがみりょくてきなんだよ」
「その通りだ。じつに美味そうに見える。ふとももから下を腹の中におさめてから飛ぶかな」
「ふーん……」
「手を離せ、ミニ豚」

わたしは再び寝袋の中に手をしまって胸の上で組んだ。
むかし飼ってた猫も、あんなふうにしゅっとした尻尾してたっけ。

「おやすみなさい」

悪魔は小さな声で、「おやすみ」とこたえた。

最近読んだのは

倉橋由美子『聖少女』
北野勇作『メイド・ロード・リロード』
森奈津子『先輩と私』
 
図らずも、「書くこと」について書かれた小説ばかりです。
 
北野勇作さんの小説を読むのは『かめくん』『どろんころんど』に続いて三冊目。
どの作品にも、ひっくり返ったカメが空中で足をばたつかせてもがくような悲しさと可笑しさがある。
『どろんころんど』にはカタルシスがあったけれど、
『メイド・ロード・リロード』は出口がなさすぎてちょっと苦手。
 
 ★

先日、guca [1]メンバーで、
男のひとから指輪をいただくことについて話しました。
わたしは指輪をもらったことがありません。
ネックレスやペンダント、チョーカーの類ならばあります。

いちばん痺れたのは、

「ガラス玉だよ。君が負担に思わないものがいいと思って」

と言って、白鳥の刻印されたネックレスをもらったときでしょうか。
あれは嬉しかった。
わたしの人生にそんなハーレクインな瞬間が訪れるとは夢にも思わなかったので。
真顔でそんな台詞が吐けるって相当なものです。もちろん誉めてます。最高です。
 
※誕生日が近いからといって、プレゼントを要求しているわけではありません。
 
↑強調。
 
 
人生にスペクタクルを求めると、ふつうの幸せが逃げてゆくようです。
 
でもさ、
キアヌ・リーブスとゲイリー・オールドマンを並べられて、
どっちか選べっつったら、断然ゲイリー・オールドマンじゃない?!
もしくはアンソニー・ホプキンスじゃない?!
 
キラキラした目で見られたら目ん玉えぐりたくなるもの。
これはもう、仕方がないのだと思う。
 
こういう間違った方向にドリーミーな部分をかわいそうに思ったり、救い出したいと思ったりしてしまうタイプの男性とは、一生かかっても歩み寄れないのでしょう。
 
 
嗚呼。

 
 

[1] http://guca-love.blogspot.com/

煙いさもなくば痒い

蛾のくせに蚊取り線香ごときでふらついて蛍光灯をばたばたするので引っつかんで窓の外になげうってやりましたよ。昨晩はねぐるしさの極まりに正座してとても悪夢でした。中身なぞ覚えていないけれど。

界遊004、森安範氏の「はじめての美容院」が読ませる。
ざっくり言ってしまえば、二十代半ばの、若くもないけどトシでもないからこそ焦ってるお年頃のサラリーマンが、初めて美容院に行くだけなんです。
ふだん美容院でなんとなく違和感を感じてることが(←私は美容院にしか行かないにも関わらず)、ちゃんと指摘されていて、あるある、と思う。
幼い頃の理髪店の思い出に阪神大震災が絡んだりする。(あ、語り手はわたしと同世代なんだ、とドキっとする)
語り手の話し言葉が関西弁中心、地の文での語りは共通語が中心で、その温度差みたいなものが面白い。
たぶんわたし、この語り手みたいな男性は少しもタイプじゃない。ぶっとんだ妄想をしてる様子もないし、真面目に働いているようだし、地の文の一人称が「私」だし、結局とてもポジティブな諦め方をするし。この手の男の人もまた、絶対にわたしのことを好きにならないと思う。だからこそ引き込まれる。語り手は自分が特別な何かであることを全く主張しない。(わたしの読み慣れている太宰さんはやたら特別ぶるのに)

この前「地元有名企業の会社員やら公務員やらは好きにならないよね、君」と言われましたが、接点がないうえに向こうがわたしに興味を持つと思えないんですもん。嫌じゃろ。仕事より趣味を優先して世の中にとことん疎くて部屋が汚い二十代後半の女なんて。しかも絶望的に丸顔で寸胴で短足でTシャツGパン運動靴ですよ。デートがいちいち短歌や俳句のネタにされるし。個人情報漏洩もええとこです。
これがある程度年配の男性なら「童顔で小柄でおとなしい夢見る夢子ちゃん」ぐらいに受け取ってくれます。たぶん。

これから、今すぐにでも、自分よりもっと若い人達を踏みつけていくんやと自覚している。金を貯めて、余裕を身に纏って、私のことを過大評価する幼い女の子と寝て。幼かったころと同じように私も怯えながら。

そう、過大評価してもらわなきゃ。

あずまくんの、「あずまにあ」。

 
あずま俊秀くん。
どことなく王朝っぽい名前のそのひとは、市内の(たぶんわたしの職場の近くの)高校へ通う女子高校生です。
彼女の個人誌「あずまにあ」をいただきました。
前書きによると、(■■短歌賞用の?)五十首制作中に行き詰まり、いままで書いた作品を振り返ってまとめたものらしい。
家族を詠んだ作品が特に面白いです。
 
 変声期とっくに過ぎたその声で一度でいいから姉ちゃんと呼べ
 行きずりで相合傘をするような男に育てた覚えはない
 飲みかけのコーラ差し出す父さんに親子レベルを試されている
 
かつてはかわいらしい声で「姉ちゃん」と呼んでくれていた弟。変声期を過ぎた今は、すっかり男っぽい声で「なぁ」とか「おぅ」とか。照れくさいんでしょうか。それでも弟っていいな。わたしはひとりっこなのでちょっと羨ましいです。

ある雨の夕方、姉は弟が女子と相合傘をしているところを目撃してしまった!
夕食の後、リビングのソファに寝転んでマンガを読む弟にそっと近寄る姉。

「彼女おったんじゃ?」
「はぁ?」
「相合傘の子」
「べつに彼女じゃねえし」
「そうなん」
「傘ねえって言ようたけん」
「同じクラス?」
「知らん。三年のひとかもしれん」

動揺をかくしきれない姉。無愛想なだけだと思っていたうちの弟が、いつの間にこのようないまどきの少女マンガに出てくるツンデレ王子様(現時点ではデレてないがヒロインの努力によってデレな側面をきっと見せるはずだ)みたいな男になりやがったのか!!
弟よ! 弟よ! 姉は行きずりの男子に傘を差しかけられるような幸運に恵まれたことはまだないよ!
弟よ! 弟よ! お前はいつまでも姉のものだと思っていたよ……。
ああ弟よ、きみを泣く……。
姉ちゃんは、お前が、その成長が、嬉しくて、腹立たしくて、さびしくて、愛しい……!!!

柱の陰に寄って、ひそかに涙を拭う姉。

そこへ風呂上がりの父、コーラを飲みながら登場。

「トシコぉ、風呂上がりのコーラうめぇわー。
 でも父さんメタボになったらおえんけえあと全部やるわぁー」
「……いらない」
「トシコ…?! それ反抗期か? 父ちゃん嫌いか? そげなことなかろ? トシコぉ!?」
 
といった感じで、わたしの妄想スイッチをいい感じに刺激してくれた「あずまにあ」、定価は「いちおくまんえん」なので、みなさん頑張っていちおくまんえん貯めて「あずまにあ」を買ってください。
(わたしは幸運にも物々交換で入手しました)
 
あずま俊秀 on twitter → http://twitter.com/azumatoshihide [1]
 
その他、お気に入りの歌を。

 最上階バルコニーから身を投げて私もシータになれるだろうか
 無条件降伏するのも悪くない鮭の小骨は刺さったままで
 息を止め小さく肩を震わせるセンチメンタル・センチメートル
 

[1] http://twitter.com/azumatoshihide

私の奴隷になりなさい

SM青春小説というふれこみの、サタミシュウの「私の奴隷になりなさい」を読みました。
表紙がとてもいやらしい。
赤い首輪をつけて媚びた感じの目をこっちに向けてる女の子。
 
ポルノ小説のようにたっぷりと性描写が出てくるんだけど、陳腐に走りすぎないように調整されていて、それゆえにおかずにするのは難しいと思う。
 
それぞれの人物にある程度のリスペクトが感じられる。
語り手である若い男にも。
会社の先輩である二十七歳の人妻にも。
汚い中年の御主人様にも。
(たぶんこの、登場人物に対するリスペクト感がサタミシュウ=石田衣良説につながったんではないかしら。石田衣良『娼年』では主人公の少年が中高年の女性の衰えた身体に美しさを見出している)
 
語り手の戸惑い、振り回されぶりに好感が持てる。
なんていうか、かわいげがあるのよ。
これが御主人様の語りだったらたまったもんじゃないと思う。
(続編では語り手が御主人様的な立場になるらしいのですが、どうしよう。怖いもの見たさで読んでみようかなあ)
 
現実には、性行為を中心に据えた関係を誰かと築くのは、とてもつまらんことだと思います。
私が二十七歳人妻の友達なら「男以外になんか趣味ないの?」と言ってしまうでしょう。
主従関係を結ぶのって御主人様が言うように「治療」に似てるけど、それって痛くもない場所を揉んで中から釘を取り出す手品みたいなもんだと思う。
あと、行為について文句をつけるなら、野外露出なんて、偶然目撃してしまった全く関係のない第三者の心を傷つけたりします。良い子はマネしちゃいけません。今やってる悪い子ははやくやめましょう。
 
って言いながらも、私こういう小説嫌いじゃありません。ぐいぐい読めて面白い。
旅のお供に最適だと思う。
移動中に読んで夜までに適度に興奮できそうです。