マッドマックス怒りのデス吟行お気に入りセレクション(3/3)
ついに最終回です。まだの方はぜひ第一回、第二回もあわせてご覧ください。
◆フュリオサ部門
すべてこの裏切りのため裏切った日々のすべてに火は燃えてあり(昭 @31_ti)
https://twitter.com/31_ti/status/617722700568530945
イモータン・ジョーを裏切ったフュリオサ。忍従を余儀なくされた7000日を思えば、その日々のすべてに悔しさの炎が燃え上がるよう。
拉致された時点で健康な若い娘だったはずのフュリオサがほかの女性たちと同じ運命をたどらなかったのは、整備の技術や戦闘能力が高かったからでしょう(鉄馬の婆様たちを見ればいかにタフで賢い集団なのか推測できる)。とはいえ、女ゆえの苦しみを与えられなかったとは考えにくい。ジョーを殺すときにフュリオサが言う ”Remember me?” は「お前が私(たち)にしたことを思えば当然の報いだぜ」って意味なのだと思います。
◆ニュークスとケイパブル部門
「マッドマックス怒りのデス・ロードには恋愛要素がない」なんて言ってるひともいるみたいですけど、全然そんなことないと思う。ニュークスとケイパブルの淡い恋は二次創作のモチーフとして大人気ではないですか! #nuxable ←最高なので見てくださいぷんぷん!
WAR BOYねむる睫毛に溜めた砂朝焼け色の髪で払って(チナミ @hushabye_c)
https://twitter.com/hushabye_c/status/617599137605816320
ニュークスとケイパブルがもたれ合って眠っている場面。睫毛がくっきり映るほどズームしたショットは存在しないのですが、そこをチナミさんは想像力でズームして見せてくれています。ニコラス・ホルト(ニュークス役)、ビューラーで押し上げたみたいに睫毛がくるんとしてますよね。砂溜まりそう。ケイパブルの赤い髪を「朝焼け色」と表現することで読者は地平線から太陽が顔を出す明け方の砂漠を想像することができます。
下句まで全部読んでもう一回頭から見直すと「WAR BOY」という呼びかけも「ふわぁふぉ〜ぃ」ってあくびしながら言ってるみたい。明け方、眠りの浅くなったニュークスが無意識のうちにケイパブルの赤い髪にゴシゴシ顔をすりつけてたらすごくかわいい。
砂灼けて我を見つめてくれしこと(松本てふこ @tefcomatsumoto)
https://twitter.com/tefcomatsumoto/status/620286817867309056
ウォーボーイズが死に際して叫ぶ「Witness me!(俺を見ろ)」が、全然違う意味を持った瞬間です。ウォーボーイズにとっての「Witness me!」は同じウォーボーイズの誰かに「Witnessd!(見届けたぞ=よく死んだ)」されればそれでよかった。それに対してニュークスが最期に叫ぶ「Witness me!」は他の誰でもなくケイパブルに向けたものです。ニュークスが求めたのは一方的に見られることではなく、見つめ合うことだった。ケイパブルがニュークスを見たとき、ニュークスもケイパブルを見ていた。だからこの作品は、ニュークスの側から詠まれた句でもあり、同時にケイパブルの句でもあるのです。
ところでわたしはデス吟行に寄せられた作品を読みながら「もしこれがデス吟行句でなかったらどう鑑賞できるか」と考えて楽しんでいます。この俳句の場合は次のように読みました。
海水浴場の熱砂を踏んで立っていた。あなたが少し離れたところから自分を見つめてくれたことを覚えているよ。
若々しい恋の、ひりひりするような切実さが「砂灼けて」にこめられています。
◆ニュークスとマックス部門
はらから【brother】と輸血袋【blood bag】が似てること赤いケーブル静脈に刺す(yen @golden_wheat)
https://twitter.com/golden_wheat/status/617832135374733312
そうそう。わたしも初めて観たときニュークスの言う ”blood bag” が ”brother” に聞こえたのでした。
上句はすんなり共感できるのですが、下句はちょっと不思議な表現です。なぜわざわざ輸血用チューブをケーブルにたとえなければいけなかったんだろう。輸血を給油にたとえる公式設定に従うのではなく、同じ行為を新しい比喩で書かなければいけないのはなぜだろう。わたしなりの答えを考えてみました。
マックスのO型RHマイナスの血が「ハイオク」と呼ばれるように、イモータン・ジョーとその配下は人間の身体を自動車になぞらえて考えています。自動車に使うもので「赤いケーブル」と言えばたぶんバッテリーケーブル。この歌ではおそらく、輸血を給油ではなくバッテリー上がりの救援と考えている。
輸血を給油にたとえると、輸血を受ける人が車で血液の提供者がガソリンの貯蔵タンクですが、バッテリー上がりにたとえた場合、輸血を受ける人は故障車で血液の提供者は救援車ということになります。
ニュークスにとってのマックスは、単なる輸血袋から同胞(はらから)のような存在に変わります。もしもう一度ニュークスへの輸血が行われたとしたら、「自動車の俺がガソリンを入れるのは当然」という感覚ではなく「俺という車がマックスという車にバッテリー上がりを助けてもらう」という感覚に近くなっていたのかもしれません。つまり、ケーブルの比喩はニュークスがマックスを対等な存在として見られるようになったこと、マックスにとってニュークスが敵ではなく共に戦う仲間になったことを表しているのだと解釈しました。(なお、車の知識が極端に乏しい人間が書いておりますので間違いがありましたらTwitterなどでご連絡ください……)
◆鉄馬の女部門
鉄馬の女たちの祈りの仕草を詠んだ歌を二首。
ただ人として在りたいと願う時我らの祈りは片手で足りる(いさな(タグ遊び用) @op_isana)
https://twitter.com/op_isana/status/617710455163740160
砂風(すなかぜ)に散らばってゆく魂を掴んで胸に墓標を刻む(きりゆき @kiriyukiko)
https://twitter.com/kiriyukiko/status/620246056664563713
一首目は、フュリオサが故郷の仲間たちと共に、亡くなった母へ祈りを捧げる場面。両手で行うV8ポーズに対して片手で行う鎮魂の祈り。それは四輪で移動するイモータン・ジョーの軍勢と、二輪で移動する鉄馬の女たちのスタイルの違いを反映しているものとも考えられます(バイクを運転しながら両手離しで祈りのポーズを取るのは危険だから)。
その祈りの仕草にどんな思いが込められているか描いてみせたのが二首目。「砂風」という言葉は耳慣れない表現ですが、雰囲気は伝わってきます。
最小の詩型の俳句と比べた場合、短歌という少し大きな器は、物語に描かれなかった部分を補完できるもの、逆に言えば、音の数を埋めるために補完するように書かざるを得ないものなのだと感じました。「マッドマックス怒りのデス・ロードには短歌よりも俳句のほうが合っている」という意見を何人かのひとが書いていましたが、台詞で語ろうとしない映画だけに、下手に言葉を尽くして補完されてしまうと「わたしの解釈と違うぞ……」ということが起きるのかもしれません。
◆幻のラストシーン部門
苗植えてこれはニュークス・ラリー・バリー(るいべえ@Vault111 @ruibee)
https://twitter.com/ruibee/status/617462972592467969
植えているのはケイパブルですね。ニュークスの面影を重ねて見ているのだから、数ヶ月後に収穫してしまう野菜の苗ではなく長い年月をともに過ごすことのできる樹木の苗だと考えたい。ちなみに「苗木植う」や「果樹植う」は春の季語です。この句に関してはナッツ(@nuts12)さんのていねいな鑑賞がよかったのでぜひお読みください。
・まず苗… https://twitter.com/nuts12/status/623854948606840833
・これはニュークス、の部分… https://twitter.com/nuts12/status/623856005605031936
・ラリー・バリーと続くことで… https://twitter.com/nuts12/status/623857213728108544
・輸血袋がなければ生きられない体だったニュークスが… https://twitter.com/nuts12/status/623858453853790208
ナッツさんのツイートをRTされていた、葛原あゆの(@k_ayuno)さんの妄想もかわいかった。
・シタデルに戻って… https://twitter.com/k_ayuno/status/624196698668032000
・種にペンでラリーの顔とバリーの顔と青い目をした顔を描くんだ。 https://twitter.com/k_ayuno/status/624196898350436352
でもここは「種」ではなく「苗」を植えるからこそいいのだと主張したい。
苗床に蒔いた種が発芽したものが苗です。植えた種のすべてが発芽するわけではないので、ちゃんと発芽したものをしかるべき位置に植えなおして大きく育てていくことになる。たしかに白い種は見た目はウォーボーイ的ではありますが、もし種の時点でニュークスの面影を見てしまったら、それが発芽しなかったときに悲しい。「苗」と書いたのが作者の優しさなのだと思いました。
樹木の種が苗になるまでには、砦はすっかり平和な村になっていることでしょう。
最後に自作を。
ふるさとは花のころかも幻肢痛(石原ユキオ @yukioi)
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#マッドマックス怒りのデス吟行に参加してくださったみなさん、本当にありがとうございました。ここで紹介しきれなかった作品の中にも面白いものがたくさんあったのですが、ひとまず終了です。
またいつか、オンラインまたはオフラインのどこかで一緒に吟行しましょう。