朝食付きなのかどうかフレディに聞き忘れていたけれど、ここはトルコだから朝食付きが普通だろう。なければ朝食を食べられる場所を教えてもらおう。そう思って一階に下りると喫茶スペースの奥の厨房でヒジャブをつけた女性が野菜を切っていた。
「おはようございます」
トルコ語で言ってみると、にっこり笑って「おはようございます」と返事をしてくれた。
「朝食はありますか?」
「はい、はい、どうぞお召し上がりください」
まだ準備中という雰囲気のカウンターからサラダとチーズと果物を取って席につくと、彼女はパンとゆで卵を持ってきてくれた。
「アフィエットオースン(どうぞお召し上がりください)」
昨日のおじいさんが来たので挨拶をした。彼はイルハンと名乗った。わたしも名乗ったが発音しにくいそうで「よし、きみは今日からエミネだ!」勝手に名付けられてしまった。
会話をしよう、とイルハン氏は言った。トルコ語とGoogle翻訳でわたしたちはたどたどしい会話をした。
どこから来たのか。結婚しているか。空手はできるか。
わたしが食事を終えると彼はトルココーヒーを持ってきてくれた。
「いつまでアンカラにいるんだ」
「今日はどこに行くんだ」
「今夜はアンカラにいるかい?」
「このホテルに?」
「カッパドキアに行くのか? またアンカラに戻ってくるのかい」
感じのいいひとなのだが、やけにわたしの旅程を知りたがる。
案内してあげる、一緒に出かけよう、と言っているようだった。
なんだかおかしいな、と思っていると、
「電話番号を教えてほしい」
と言われた。イルハン氏はホテルのカードに自分の電話番号を書いてわたしに差し出した。
おっと。これはホテルの従業員としてやっちゃだめなやつなんじゃないですかね。たとえ下心がなくても。親切心だったとしても。
「いまこの番号をその携帯に登録してくれよ」
イルハン氏は身振りを交えてそう言う。
わたしはGoogle翻訳に「わたしのボーイフレンドが嫉妬するかもしれません」と打って見せた。日本のおじいさんたちなら「おいおい、誤解しないでくれよ、そういうつもりじゃなかったんだ。おっちゃんが悪かったよ。こいつは、まいったなあ……」と笑ってごまかすところだ。
イルハン氏は、
「男? 昨夜ここまで送ってきたあの男か。あああ……」
と露骨に残念そうな顔をした。
不穏な空気を感じたので、部屋に戻って急いで荷物をまとめた。フレディに「問題が発生したので予定より早めに来てください」とメッセージを送った。
早朝。部屋からの眺め。
突然部屋のドアがノックされた。ちゃんと鍵をかけていただろうか。ドアには覗き穴がない。掃除に来たのなら掃除だと声がかかるはずだ。ここは三階。わたしは引きずりそうなマキシ丈のワンピースを着ている。どうする。ドアに近づき、様子をうかがった。物音はない。静かにドアから離れた。
結局何も起きなかった。フレディから返信が来たのでエレベータで一階に降りた。
フロントはイルハンではなかった。推定50代前半の白髪混じりの男性が座っていた。
目が合うとバッチーンとウィンクを寄越した。
ほんとうに。
トルコのひとのそういうところは嫌いじゃないが、ほんとうにやめてほしい、今は。
「チェックアウトお願いします。友人が来るまでここのソファで待っててもいいですか」
「どうぞ」
彼は微笑んでホテルのカードを差し出した。恐る恐る受け取ったが携帯番号はなかった。うん、そうだよね、よかった。
イルハン氏はシフトを終えて帰る前にわたしに挨拶に来たのだろうか。出なくてよかった。
「ホテルの前に来ました。出てきていいですよ」
メッセージを読んで顔を上げると公園の向こうにフレディの姿が見えた。中まで来てくれるわけじゃないのか。安全には配慮してくれるが過保護ではない。甘えさせてくれる範囲があって、そこを踏み越えようとするとあっさり拒否される。
「朝食は食べましたか。今日は運転するので断食しないことにしました」
「あのね、話をきいてほしい。さっきメッセージしたことについて話させて」
朝から開いているカフェに入って、チャイと小さなお菓子を選んだ。
お菓子はすごく乾燥したスコーンみたいでかじるそばから崩れた。
フロントの老人に電話番号を渡されたことを言った。
「その男に何かされましたか」
「触られなかった。性的なことも言われなかった。番号渡されただけ。でも怖かったんだ。だって日本だと絶対ありえないよ」
「それはトルコでも普通ではありえないことです。ホテルの従業員は顧客に個人的な電話番号を渡したりしない。ただ君の選んだホテルは安いところだったから。残念ながら我が国では十分に教育が行き届いていない面があります」
日本では大概の安ホテルは単に古くて掃除が行き届いておらず隣の部屋の音が聞こえてくるだけだった。だけどトルコでは、というか知らない土地では、清潔や快適だけではなく安全のことも考えなくちゃいけないんだ……。
イスタンブルのホテルを選ぶときに「従業員に口説かれました」というレビューを読んだのに、まさか自分がアンカラに来てその当事者になるとは。
「君は誰にでも笑顔を見せすぎます。むやみに笑わないでください。この国の男たちは誤解します」
いやでも、相手が自分と同じくらいの年頃に見えたらそんなにフレンドリーにはしないよ。でもおじいさんだったから、警戒解除してしまったのだ。
市川ラクさんの『わたし今、トルコです。』に「おじさんたちも現役です」って書いてあったけど、いま実感としてようやくわかったよ。おじいさんになっても引退しないんだな……。
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(と、書きながら思ったけどトルコの人はわたしから見て大抵老けて見えるのでイルハンじいさんが実は50代半ば、チェックアウトのときのおじさんが40代だったりする可能性もなきにしもあらずだな?)
カッパドキアへ行った後アンカラへ再び戻ってきて同じホテルに泊まる予定だったんだけど、フレディはそれをキャンセルし、出張に来た人がよく泊まるという駅前の大きなホテルを予約した。
キャンセル料が必要かどうか聞いたら、フレディは必要ないと言った。本当に必要なかったのか彼が代わりに払ってくれたのかはわからない。
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