コードネーム蝶(ケレベッキ)は買ったばかりの緑色のシャツを洗濯機で回しながら一泊分の荷物をバックパックに詰めていった。一回洗濯したぐらいでは自然に着古したような風合いは出ないのだが、仕方がない。値札を切ったばかりのまっさらな状態よりはだいぶましだろう。現場の人間は普通こんな作業はしないものだが、彼は完璧を求めるタイプなのだ。人員削減の嵐が吹き荒れる中、それでも仕事の質にこだわっていた。
諜報員が任務に馴染むよう装備を整える。それが元々の彼の仕事だった。観光客を装ってリゾート地に潜伏させるなら色褪せた柄物のシャツにブラジル製のビーチサンダル。学会に紛れ込ませるなら野暮な眼鏡と肘にパッチを当てたジャケット。衣類だけではなく身分証、偽の家族写真、小道具としての新聞や雑誌、有名バクラヴァ専門店の箱と袋……。武器以外のたいていのものは用意する。事前調査、調達、場合によっては加工、修理、在庫管理、処分までを10人ほどで行う部署のチーフが彼だった。つい数ヶ月前までは。
二週間の休暇を申請した途端、普段は無表情な上司がにっこりと笑った。
「どこへ行くんだったかな」
「子供たちに会いに」
「極東の恋人にではなく?」
「なんのことでしょう」
「ボスフォラス海峡から君が電話した女性のことだよ」
イスタンブル出張のついでに何気なく乗ってみたクルーズ船を思い出した。秋の風に吹かれながら熱いチャイを飲んでいるといつになく浮かれた気分になって、日本に住む知人にビデオ通話を繋いでみたのだ。
パジャマ姿のまま、口元をサージカルマスクで覆って通話に出た女は小さな目を丸くして「ハーリカ(すばらしい)!」と何度も言った。
そうか、あれは「我々の」船だったのか。
「二週間の休暇はもちろん許可するよ。労働者の権利だからね。それからついでと言ってはなんだが、人事異動のしらせだ、蝶(ケレベッキ)」
「はい?」
「蝶。それが君のコードネームだよ。現場に出てほしいんだ。来週から訓練だ。おめでとう」
拒否するという選択肢はない。離れて暮らす3人の子供たちを高等教育に送り出さなければならない彼にとって、昇給と危険手当は魅力的でもあった。
「異動するんですね、チーフ」
部屋に戻るなり部下たちに取り囲まれた。
「なんで話が筒抜けなんだ。君たちが現場に行ったほうが向いてるんじゃないのか」
おどけて言ってみせたが、誰かが現場に回されるという噂はしばらく前からあったのだ。まさか四十近い自分が選ばれるとは思いもしなかったが。
古株のデニスが熱のある子供のように目を潤ませて静かに抱きついてきた。頭ひとつぶん背の高いデニスに分厚い胸板を押し付けられて息が止まりそうになる。
報道は決してされないが、組織の人間なら誰もが知っている。ほんの数年でどれほど多くの職員が殉職してきたか。あるいは再起不能の大怪我で引退を余儀なくされたか。
彼がなぜ選ばれたか、部下たちには理解できた。合理的な判断と的確な指示。誰に対しても声を荒げたことがない。何があっても決して顔色が変わらない。身体能力を除外すれば諜報員にとって重要な資質を備えているのが彼だった。新人時代、訓練中に腕を折らなければすぐさま現場に配属されていただろう。