珍部門受賞作の発表です。
「なぜこんなことを俳句でやろうと思ったの……?」
と考え込まずにはいられない不思議な味わいの俳句を集めました。勇気とサービス精神に珍の称号を捧げます。
(これまで発表した部門:VR部門・どうぶつ部門・ホラー部門・小太郎部門)
【珍部門】
★あんぽ柿賞
つくられた干柿さわられる干柿 井口可奈
「つくられた干柿さわられる干柿」と「干柿」が繰り返されることで想像するのは、軒下にたくさんの干柿が並んでぶら下がっているところ。
しかしこの「つくられた」がよくわからない。「つくられた干柿」とはどういうことを言っているのか。皮を剥いて紐で吊るされた状態なのか、そこからしばらく経って水分がいくらか抜けた状態なのか、もういつ食べても大丈夫という状態なのか、すでに紐をはずされて食卓に供されているのか。
わたしにとっての干柿は「つくる」というより、皮を剥いて吊っておいたら勝手にできたり、失敗して黴が生えたりするものだ。もちろん生え始めた黴を落としてリカバリする方法などもあるわけだが、概ねただただ食べごろになるのを待つものであり、「つくる」というよりは「する」という意識で、「あんたほうまだ干柿しとらんのん?」「へえ、天気う見てしょう思よんじゃ」……
と、つらつらと考えていてやっと気づく。
この句は、自分の家の軒下を見ているのではなく、有名な柿の産地で生産されてスーパーやデパートなどに並ぶ、美しい干柿の生産過程を、消費するひとの側から詠んだものなのでは、と。
すみません、田舎の暮らしはいいぞマウンティングみたいに見えたらごめんなさい。都会で暮らしたことがないのです。家とも干柿とも距離を置かず狭い世界で生きております。
出荷するための干柿生産の様子を、ニュース映像で見たことがある。たくさんの干柿が “農協婦人部” (というものがいまもあるのかどうかわからないが)のような組織の女性たちの手で揉まれていた。干柿は製造段階で大いに「さわられる」のだ。揉むことによってより甘く柔らかくなる、というような理由だったと思うが、知らないひとの手が触れたものを口にすることへのわずかな抵抗感を、この「さわられる」は意識させる。
俳句で食べ物をおいしそうに描けたらすばらしいし、多くの人はそれを目指す。だけど、こんなふうにほんの一瞬頭をよぎってすぐに忘れてしまっているような抵抗感・違和感を拾い上げてくれる句もいい。
★羊の賞
ムートンのにほひ生年月日かな 榊陽子
すごくシンプルな「取り合わせ」「二物衝撃」ですが、取り合わせるものが変わっています。
「ムートンのにほひ」と「生年月日」て!
ムートンは季語として使っていると考えたい。コートかブーツだろうか。ムートン何それおいしいのという方はおぐぐりください。絶対見たことあると思う。
ムートンのにおいには形はないし、生年月日も概念。具体的な景を結びにくい言葉の選び方ではあるものの、わたしの場合はこの組み合わせからムートンコートを着たまま市役所の隅の机で書類を書いている人物が見えてきました。
市役所の中は暖房が入っているのですこし暑くなってくる。体温の上昇でムートンコートの獣のにおいがふわりと立ちのぼる。いま自分が衣服として着ているものに、生きて牧場を走り回っていた過去があるということ。わたしたちはそれを知識として知っているけれど、普段は完全に忘れている。
「生年月日かな」なんて普通なら詠嘆するようなことではない。単なる身分証明のための数字の羅列にすぎない。しかし、一頭の家畜の生と死を意識したことで、生年月日はただの数字を超えてこの肉体が「生まれた」という事実を思い起こさせ、そしてその先には死があるということに、ふと立ち止まってしまうのだ。
余談ですが「にほひ」の歴史的仮名遣いはムートンのモフモフ感を増幅してると思います。
★ギャラクシー賞
短冊を刃に織姫の脾腹割く 藤幹子
願い事の書かれた七夕の短冊。その短冊で織姫の腹を割く、と言う。
暴力のようでもあり、解剖のようでもある。
姫の割けた腹からこぼれ出るのは血か色とりどりの糸か星屑か。
「最低限の情報をのせた一枚絵を置いておきますので、あとはご自由に妄想してください」とでも言うかのような句だ。澁澤龍彦風の耽美的な小説にするもよし。MARVELやDCのような銀河を股にかけたアクションにするもよし。
ところで彦星はどうした。彦星の不在感がすごい。織姫、抵抗しなかったのか。戦って負けたのか。おとなしく腹を差し出したのか。そこにほのかな百合を感じる。
★専門店街賞
山眠る報知器専門店へ行く 久石ソナ
5句中3句に「◯◯専門店」を登場させた久石ソナさん。3軒の専門店の中で「取り合わせ」としてぐっときたのは「報知器専門店」でした。
彩度の低い冬山と、火災報知器の鮮やかな赤。山の静寂と「報知器」から感じるけたたましい警告音の対比。(描かれている情景としては「報知器専門店へ行く」だから報知器はまだ鳴っていないのだが、意識の中では一瞬報知器の音が鳴り響く。)
「報知器専門店」などというものは実在しないのではないかと思うが、川上弘美的リアリティラインというか、現実からほんのすこしだけ浮き上がったファンタジーとしてとても魅力的。
参考:ホーチキ株式会社(名前がそのまんまですごくない!?)
★ハッピーイースター賞
「よごれてないたまご」と云へり夏の朝 ちなみ
幼い頃、うちの庭には二羽ほど鶏がいたように記憶しているのだが(シャレじゃなくてほんとうなんです!)蛇だかイタチだかに食われていなくなってしまった。家の鶏が産んだたまごは茶色く汚れていたような気がする。いまの生活では汚れたたまごを見るのはなかなか難しい。スーパーで買うたまごはきれいに洗われていてまるで工業製品のようだ。(実際工業製品と同じように大型の装置で洗浄されて検品後出荷されるようです。工場見学してみたい。)
「よごれてないたまご」と敢えて言うのは、この俳句の登場人物たちがいま「よごれたたまご」がざらにある環境に置かれているからなのではないか。「よごれてないたまご」が当たり前の場所ではそんな発言は出てこない。
養鶏場に来てみたのか、農家の放し飼いか。それとも外国の市場なのか。
「言う」「聞こえる」「見える」「思う」といった言葉は俳句では省略されがちだが、敢えて記述された「云へり」には軽い驚きがこもっている。「『よごれてないたまご』と言ってるよこの人!」と。
夏の朝。強い日差しと涼しい空気。サンダルばきで向かった鶏小屋、あるいは市場。彼らの見ている汚れたたまごや汚れていないたまごはきっとどれも産みたての新鮮なたまごで、触るとまだほのかにあたたかい。
最後に予言しておきます。我はBL部門でこの話題にもう一度触れるであろう!
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