往来させるもの−五十嵐秀彦第一句集『無量』を読む

「直喩」は意味において、「対句」は文章構造において、ともに言葉の類似を示唆するものであると考えられているが、五十嵐秀彦の創作では、類似のあり方が一筋縄ではいかない。
本論ではそのふたつの修辞法を掘り下げ、独特の魅力に迫っていきたい。

一、直喩

五十嵐秀彦第一句集『無量』には比況の助動詞「ごとし」を用いた直喩が十回登場する。直喩は通常、類似点を指摘することで対象をイメージしやすくするために用いられる。しかし、この句集では一見類似点のないような意外な言葉が「ごとし」で結ばれて直喩として差し出される。

遊星のごとき君らの薄暑かな

「遊星のごとき君ら」とは、公転・自転する複数の遊星(惑星)のように楽しく遊び回る少女たちだろうか。なぜ少女かというと、西東三鬼の「おそるべき君等の乳房夏来る」を連想するからだ。三鬼の句のイメージも重なって、外で遊び回っている少女たちは薄着で元気いっぱい、それを見ている作中主体は初夏の暑さに早くも疲れてしまっているように感じる。
二〇一三年の初夏はきゃりーぱみゅぱみゅの服装を真似た若者がピンクやブルーの髪をして街を闊歩していた。「遊星のごとき」という表現からは、全く違う価値観の若者を目にしたときの、違う惑星に来てしまったような違和感を読みとることもできる。

月照らす机上流砂のごとき文字

砂漠に描かれた不明瞭な文字。風が吹けば消えてしまいそうだ。「月」と「流砂」から連想するのは童謡「月の砂漠」のような世界。そのイメージを受けて「流砂のごとき文字」を想像すると、右から左へさらさらと書かれたアラビア文字が思い浮かぶ。月光の差す机上で自分の書いた文字が(それはなぜか見知らぬ異国の言葉で)書いた側から風紋のように形を変えていく。
あるいは、手書きの文字ではなく一瞬で形を変えるコンピュータのテキストデータかもしれない。月光とディスプレイの青白い光は似ている。また、初代キンドルなど実際に砂(砂鉄)を用いて文字を表示するタイプの電子書籍リーダーを詩的に表現しているのだと考えても面白い。

若水の謀議のごとく流れおり

ただの水に、それも本来おめでたいはずのものに「謀議のごとく」と言ってしまうのは大げさすぎるように感じる。何がこの作中主体を神経過敏にさせているのだろう。仮に作中主体を正月行事のとりしきりを任された年男だと考えてみよう。元旦の厳粛さと華やぎに包まれた古い家で、しきたりに従って正月の行事をこなしながらふと感じた不安感。家長としての責任を立派に務めようとするあまり、些細なことにまで過剰に反応してしまう生真面目な男の姿が思い浮かぶ。

二、対句

対句は、類似の構造をもつふたつの言葉を重ねて用いる修辞法である。対句もまたこの句集に頻出する特徴的な表現であると言える。俳句は十七音の非常に小さな形式の詩であるため、通常は言葉の重複を避けがちである。五十嵐秀彦が対句という重複を含む表現を好んで採用しているという点には強い意図が感じられる。

天道虫あこがれやすく死にやすく

あこがれることと死ぬことは一見遠いように思える。しかしこの句ではあこがれやすさと死にやすさが同時に成立すると言う。天道虫は、ここでは若さや幼さの暗喩だろう。たとえば青春期、強すぎる憧憬のために自ら死を選んでしまうというようなことだろうか。「愛(エロス)」と「死(タナトス)」と書けば単純すぎるが、愛を「あこがれ」にシフトすることによって常套句を回避している。

外套をまとひちひさき闇まとふ

外套をまとうということは小さな闇をまとうというということなのだ、と言っている。ここでは対句はイコールの関係で、ひとつの行動がもつ二種類の意味を書くために用いられている。外套を着て歩いている人々は、それぞれ外套の中に小さな闇をまとっている。それはひとが抱えている苦しみや悪意など暗い感情の比喩でもあるだろう。

夜に還る隧道を抜け冬を抜け

いただきし鱈さばくともあばくとも

靴底の雪剝がし黙剝がしけり

といった句も、ひとつの行動がもつ二種類の意味を書いていると言える。

秒針の速度牡丹雪の速度

この句は対句表現だけで一句が成立している。「秒速5センチメートル」というアニメーション映画がある(新海誠監督/二〇〇七年)。「秒速5センチメートル」は桜の花びらの落ちる速度を表しているそうだ。牡丹雪の速度は秒速何センチメートルだろう。秒針が動く速度と牡丹雪が舞い降りる速度を思い描いているうちに、速度よりもそれらが絶え間なく続いていくことを意識させられる。
似た構造をもつものとして、

赤とんぼ無数失踪者無数

という句がある。「赤とんぼ」は可視的な存在。「失踪者」は不可視の存在。ふたつを並べることによって失踪者が変化したものが赤とんぼなのではないか、とも思えてくる。
これらの句では、「秒針」と「牡丹雪」の取り合わせ、「赤とんぼ」と「失踪者」の取り合わせを対句として行っていることになる。

蝶有罪あるいは不在雨あがる

「有罪」の対義語は「無罪」だが、対として選ばれたのは「無罪」に近い音をもつ「不在」だ。「無罪」の気配をただよわせつつ「不在」と言ってしまうところに自嘲のような諦めのような感情が感じられる。無罪放免となったのではなく、有罪でありながらもうそこには存在しない蝶。事件は解決したもののルパン三世を取り逃がしてしまった銭形警部のようである。

三、直喩と対句のもたらすもの

五十嵐秀彦はあとがきにおいて「私の俳句はそんな具合に(古代と現代、あの世とこの世の)両界を往来しているように思う」(括弧内筆者)と記す。
この「往来」は俳句の意味内容によるものを指しているが、「直喩」や「対句」は構造の上で読者の意識の「往来」を促している。
意外な言葉を「ごとし」で結んだ「直喩」によって、読者は喩えるものと喩えられたものの間の類似点相違点を探しながらふたつの言葉の間を往来する。
対句もまた、対になったふたつのものの間で読者の意識を往来させる。そもそも対句は言葉の変奏による繰り返しであり、往来する構造そのものと言える。
ふたつのものの間を幾度となく往来するうちに、様々な解釈の可能性を得て、イメージは重層性を帯びていく。句会などで「景がひとつにしぼれない」ことがその句の欠点として指摘されることがあるが、この句集に関しては、むしろそれこそが魅力である。
本句集の表紙には、雪原の向こうへと続いていく足跡が色鉛筆の素朴なタッチで描かれている。その足跡はまるで「この無量の可能性を秘めたイメージの大地を、どうぞ、楽しく彷徨ってください」と読者に誘いかけているかのようだ。

『逸』第33号(2014年3月31日発行)掲載