▼やなる企画
うつぶせになってる女性(西本千奈美)と、それを見下ろす男性(矢鳴孝一郎)。
男性の腕が震え始めて女性のおなかにぺちぺち当たる、その音が生々しくてぎょっとしました。普段自分がタンパク質や脂肪のかたまりだということを忘れてるからなあ……。男性のお腹の上に女性を乗っけた状態で男性がかにのように移動したり、スカートがめくれあがって女性の黒い下着が思いっきり見えていたり、セクシャルな連想をさせながらもぎりぎりでいやらしくないのが不思議。
「生と死、男と女、静と動といった対比」というようなことを合評の際に矢鳴氏がおっしゃっていましたが、一人が動いているときは一人は倒れている、というような振付けになっていて、さいご、二人が手をつないでシーソーのような動き(組体操の『扇』を二人で作って左右に揺れる)で光の方向へ進んでいくところが印象的でした。ひとりぶんの生命力で生きているふたり、というようなことを考えました。
▼E☆1000シュカシュー糖
しきぶとん用シーツの中にまるまる人が入っているのが「砂漠」。(河合穂高・西園加)
舞台中央に喪服の男。(掘真亮)
男の前に黄色い布。その下からぱちぱちと爆ぜる音とともに現れる赤い手足の女が、「焚火」。(伊東みさき)
愛する女性を亡くした男が見る砂漠の幻影。
男の台詞、女性が朝目覚める様子を「茹でたての枝豆のさやから実がこぼれるように黒目がのぞく」というような表現で描いているところがとても素敵でした。
スキャットのような、マントラのような砂漠の声もとても面白かった。
音楽もオリジナル。(江田達貴)最後のほうでかかるきらきらちろちろした音は、東南アジアの素朴な鈴を思いました。
(敬称略、だったりじゃなかったり。)
さて。
私は「矢印」という作品を朗読。
ほろ酔い朗読会の際に読んだものを今回用に組み立て直しました。
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合評の際に女性のお客さんから、「若い女性であることと朗読の内容との関わりをあなた自身どう考えるのか」というようなご質問をいただきました。女性ピン芸人に近いものを感じとられたよう。難しい質問だと思いますし、私が日々考えていることにいちばん近い内容でもあったと思います。私自身のスタンスとしては男性に100%媚びるのは嫌だし、でも多少卑怯な手をつかってでも利益を得なければいけない。嘘はつきたくないが男とは寝たい。甘えたくないがOLとしての仕事は円滑に進めたい。単なる男性詩人の真似はしたくないし無難な女流でもありたくないが、わかりやすさは持っていたいし、受けはきっちり狙っていきたい。
朗読する詩の世界ではまず「わたしは乙女チックポエム少女ではないのでどうぞ恥ずかしがらずに安心して聴いてくださいね」というメッセージを最初に与えてあげることが必要だったりします。乙女ポエムは聴く人にとっては自らの恥ずべき十代を思い出させてしまうたいへん危険なものだからです。過剰に性的な言葉を使ってみたりするのがそれに対する私にとっての解決法で(でもひょっとしたら性的な言葉が椎名林檎世代的な恥ずかしさを感じさせてしまっているんだろか。ごめん)、他の解決法もたぶんあるのだと思うのですが、まだ身につけていません。私が偉大なる老詩人といった印象の外見になったら今の方法は必要ないのかもしれません。あまり答えになっていませんが、この質問をされた方が日々どんな方法で女性であることと付き合っているのか、逆に私から質問してみたいです。
[1] http://www.d-mc.ne.jp/blog/575/wp-content/uploads/2009/03/yajirusi090314haihu.jpg
[2] http://www.d-mc.ne.jp/blog/575/wp-content/uploads/2009/03/yajirusi090314.jpg