かつてキリスト教徒を隠した奇岩地帯は今も隠れ住むのにちょうどいい場所だ。
外国人観光客が押し寄せては去っていくこの町では、誰もよそ者を気にかけない。俺はハニーブロンドをブルネットに染める必要もなく(というか元々この国には金髪の人間も結構いるし)Tシャツと短パンでホステルをはしごして過ごした。飯はうまいし空気もうまい。物価は安く酔っ払いは少ない。テロとも無縁の田舎だ。
いっそここらへんで土産物屋でもやって生きていけないかな。そんな妄想をし始めたころ「蝶(ケレベッキ)」と名乗る男から連絡が入った。「救援に向かう。無事に帰国できるようサポートする」と。
蝶は俺を街の中心のバス乗り場で拾い、安ホテルのひしめく坂道に車を停めた。
会ってみれば名前に反して地味な男だった。ここまでリアルな「一般市民」を用意できる組織だったとは。俺がいままで接触してきたトルコ側の担当者といえば筋骨隆々の軍人タイプかキャビンアテンダントのような背の高い美人と決まっていた。スパイ映画の幻想から自由になれよ、と思ったものだ。
蝶の緑色のポロシャツから伸びる細い腕。肘のあたりが日に焼けてほんのり赤いのは「残業続きの日々から解放されようやく休暇が始まりました!」という感じだ。いい。こういう普通のお父さんみたいなタイプ、俺は嫌いじゃないぞ。車に漂う甘ったるいチョコレートの匂いも悪くない。砂糖をこよなく愛するこの国の男たちが好きだ。かわいい。もう少し長居させてくれても俺は一向に構わないのに。
「ラマダン太鼓が聞こえたら座席の下に潜ってください。いったん降りられるのは首都についてから、夜の8時です」
「ラマダンに断食を体験できるなんて最高だよ」
「いいえ。水は用意してあります。イスラームの断食においては水すら口にしません」
にこりともせずに言った。なるほど。こういうところが組織の人間らしさか。
「国に戻ったら何がしたいですか」
「そういう元気づけるみたいな質問はやめてくれよ。俺は大丈夫だ。何も心配していない」
OK、と言って蝶は車から降り、坂道を登ってどこかへ消えた。