読書」カテゴリーアーカイブ

続・能村登四郎沼の歩き方

  Radek Pestka

能村登四郎が気になり始めたみなさんにちょっとショックなことを言います。
能村登四郎先生ってね、故人なんです。2001年に90歳で亡くなりました。
つまり新刊が出ません!(イヤァァァァァー!!!)

でも。

新刊は決して供給されませんが、生涯に句集が14冊(!)も出てるので泣かないで。わたし自身全然目を通せてない部分もいっぱいある。見逃してる名句が山ほどあるに違いないので、みんなで大事にdigりましょう。

さて、前回は第3句集『枯野の沖』第5句集『幻山水』を中心に紹介しました。
今回は第8句集『天上華』第9句集『寒九』から紹介していくよ。

1. やっぱり僧が好き『天上華』

能村登四郎といえば僧侶俳句。僧侶が登場しない句集は第2句集の『合掌部落』だけ。(合掌部落にも僧侶俳句あったよ! という場合は教えてください)『天上華』には「美僧」が登場します。

春怨 昭和五十九年
逃げ水に逃げられて逢ふ美僧かな
 逃げ水は春の季語です。春の陽気。逃げ水を追いかけるように歩いていくと当然その逃げ水は消えて、そこに立っていたのはひとりの美僧。「美僧」でも「僧侶」でも音の数は同じなのに、敢えて「美僧」と言いたかったんだね。「杉の花降らす杉山に僧入れば」と並んでほとんどファンタジーの世界。

竹皮を脱ぐや僧衣も脱ぎすてに
 全集で読むと美僧を出したのと同じページにこの句があるんですよね。さっきの美しい魔物のような美僧がバサッと脱ぐとこ想像してしまう。グッジョブとしか言いようがない。発光してそう。

一雁 昭和五十六年
滝行のすみし火照りとすれ違ふ
 この句も僧侶俳句と考えていいかもしれない。滝の冷たい水に打たれた後の身体から「火照り」を感じた。っていうか火照りを感じる距離なのかよ。こういう能村登四郎の前のめりなところが好きだ。

午後からの雪 昭和五十七年
削るほど紅さす板や十二月
 ひええ! 色気がやばい! 鉋ををかけて木の肌を削っていくとだんだん赤みが見えてくる。単に木工の様子を言っているはずなのに艶やか!「紅さす」という言葉は口紅を連想させるし、人の肌が紅潮することも思わせる。「十二月」なんて素知らぬ顔で時候を季語として置いていくさりげなさが憎い。能村登四郎の句には、
身を裂いて咲く朝顔のありにけり『寒九』
散りしぶる牡丹にすこし手を貸しぬ『菊塵』
のように「美には痛みが伴う」とでも言いたげな句がときどきありますよね。滝行の句にもほんのりその空気は感じる。BDSMじゃないですか。

天上華 昭和五十八年
宿敵のゐるはるかへと豆を打つ
 ぜひ「敵手と食ふ血の厚肉と黒葡萄」とセットで読みたい。豆まきの豆を宿敵のことを思って撒くけれど、その宿敵ははるか彼方にいる。もう二度と会わない相手なのかもしれない。すでに近くにはいない宿敵にわざわざ豆を撒く必要ある? 追い払う気あるんだろうか。むしろ気づいてほしいという祈りなんじゃないのか。まるで教室の少し離れた席に向けていたずらで投げる消しゴムみたいだ。無視すんなよ、俺にかまってくれよ、お前と喧嘩できない人生なんてつまんねえよ、と。

仕置場にやや似て寒の水垢離場
 仕置場というのは処刑場のことなんだそうです。水垢離の過酷さを処刑場にたとえている。それってちょっと不謹慎ではないでしょうか。不謹慎なのは妄想がはかどりすぎるわたしでしょうか。BDSMじゃないですか。(2回目)

少年のわれゐて蝌蚪を苛(さいな)める
 蝌蚪(かと)、オタマジャクシのことですね。春の句ですよね。田んぼのわきにしゃがみ込んで棒でオタマジャクシの群れを散らして遊んでるんでしょうね。お日様の下でするちょっぴりうすぐらい遊びです。なぜだろう、そこはかとなく性的なものを感じる。お察しいただきたい。

たらの芽や男の傷は一文字
 男の! 傷って! なんですか!?

2. 『寒九』−−いまさらの「男同士もいいなあ」

昔むかし 昭和六十一年
男同士もいいなあと見て松の花
『寒九』のいちばんの突っ込みポイントは「男同士もいいなあ」です。
いや、知ってるし! ずっと男の美ばかり語ってきたじゃん、あなた!
でも、リアルタイムで作品を追っていたファンは「ふうん?」ぐらいでスルーしたかもしれません。毎月少しずつ読んでいたら、他のいろんな句にまぎれて男同士の熱い句が多いことに気づかなかったんじゃないのか。気づいたとして言いにくかっただろう。

芭蕉わすれ 昭和五十九年
夏果ての男は乳首のみ老いず
 能村登四郎、老いと若さを語りがち。この句では乳首に着目した。いやしかし、これは良さを語りにくい句だよ、即物的すぎて。夏の終わりだから夏痩せもあるのでしょう。枯れたような上半身に、ただ乳首だけは若き日とおなじ佇まいで存在している。ご自身のことをお詠みになったと考えるなら「妖艶」と言ってしまうのは憚られるけれども、故人だからいいですか。ちなみに下半身にフォーカスした句もあります。
今にある朝勃ちあはれ木槿咲く『菊塵』
こんなことも言っちゃう。
夏痩せて身の一筋のものやせず『民話』
えー……。

心づくしの秋 昭和五十九年
鷹の眼をもつ若者とひとつ湯に
 関係性を語れる句はいいな! 鷹のような鋭い眼をした若者。それを見ている自分も湯に浸かっている。二人とも裸で。「鷹」はいちおう冬の季語だけど、比喩として使われているから実在の鷹のことは詠まれていない。実質無季ですよね。だけど「鷹の眼をもつ若者」に生々しい実在感があって読者の脳裏に情景が広がる。語り手が若者を見ているということは、若者もまた語り手である年上の男を見ているわけです。鷹って捕食者ですよね。やだ〜〜〜! 食べられちゃう〜〜〜!

湖の地蔵盆 昭和六十一年
素裸の僧ゐてやはり僧なりし
 僧侶が僧衣を着ていれば当然僧侶に見える。しかし僧衣を脱ぎ捨てて素裸になってもやはり僧侶に見えると言う。これも無季っぽく見えますが「裸」が夏の季語です。素裸であってもそのひとの立ち居振る舞いがどこか僧侶らしいのだろうか。僧侶以外でスキンヘッドにするひとは目つきが極端に鋭かったり彫物があったりするから(※仁義なき戦いシリーズを何度もリピートしているひとの意見です)そこでなんとなくわかるのかもしれない。「裸」という季語を使う人は多いけれども、「裸の僧侶」について言及したのは能村登四郎ぐらいのものではないでしょうか。

はい。
ということで今回は以上です。
先日友人のMさんとメッセージのやりとりをしていてこんなことを言われました。

「能村登四郎の俳句ってBLというよりむしろJUNEなのでは」

そうだ。
ハッとしました。
植物に託されたエロスのむせかえるようなキラキラ点描世界はたしかに “JUNE” だ。男性美や男性同士の関係性が読み取れるとわたしは自動的に “BL” って言ってしまいがちだけど、能天気にラブラブハッピーだったり受がでかくてごつくてオラオラしてたりする “BL” が生まれる以前の空気感が能村登四郎の作品にはある。

それじゃあ、もっと現代の “BL” っぽい俳句を作る作家さんはいないの?

え。
いるじゃん。

少年兵追ひつめられてパンツ脱ぐ 山田耕司

どうですか。
九州男児先生を思わせるこのギャグ漫画っぽさ。
次回、山田耕司さんの俳句を紹介します!!

能村登四郎沼の歩き方

能村登四郎読本

能村登四郎が訪れた金陵山西大寺(岡山市)で撮影しました。

この記事は「俳人能村登四郎は男×男的な意味でたいへん熱い作家だと聞いている」「能村登四郎のライフワークは男性美の追求だったんですよね?」「美僧! 美僧!」というような方向で能村登四郎が気になり始めたひとに向けて書いています。

さて、能村登四郎を読みたいと思ったとき、図書館に行って『能村登四郎全句集』もしくは『能村登四郎読本』を書庫の奥から引っ張り出してもらうことになるのではないでしょうか。全集は完全に鈍器だし、読本にしたって読むところがいっぱいあってどこから手をつけていいかわかんない。ご安心ください。能村登四郎の魅力がぎゅっと凝縮したおすすめの箇所を紹介します。

1. まずは第3句集『枯野の沖』を読もう

悲母変 昭和三十四年
麦刈りの少年の腋毛おどろかす
 三島由紀夫的な!? とツッコミを入れてしまったなら既にあなたは能村登四郎沼の民です。おめでとうございます。

同温 昭和三十六年 – 三十七年
夏痩せて少年のゐる樹下を過ぐ
 完全に夏に負けている老いた自分と涼しげな木陰にいる少年の若さの対比。
シャワー浴ぶ若き火照りの身をもがき
 シャワーを浴びる仕草ってもがいているように見えるかもしれない。それを「若き火照りの身をもがき」と表現してしまう。これも「若くない自分」が「若者」を見ている句と考えていいと思う。水滴を弾くギリシャ彫刻のような肉体を想像させてくれます。
敵手と食ふ血の厚肉と黒葡萄
 ライバル同士で! 血の滴るステーキと黒葡萄を! 食べているんですね! それもまたひとつの闘いのように! 肉と葡萄という組み合わせの地中海っぽさ。やっぱり何かギリシャを感じる。ちなみに能村登四郎が実際にギリシャを訪れるのは昭和42年です。
青年なまめく乾草ぎつしり納め来て
蓼あかし売るときちよつと豚拭かれ
 乾草の句と豚の句はぜひセットで読んでほしい。豚農家の話ではないのだが「ゴッズ・オウン・カントリー」というボーイ・ミーツ・ボーイな映画を観てほしい。汗臭さ+獣臭さ+若さのきらめき。

露一粒 昭和四十一年
冷されし馬なりすれちがひざま匂ふ
 濡れた何かとすれ違うときににおいを感じる俳句というのは、能村登四郎全句集の中でときどき遭遇するのですが、これは馬。「冷し馬すれちがひざま匂ひけり」とか書けば定型に収まるだろうに、敢えての破調。強い意図を感じませんか。字余りによって馬の長さが強調され、馬の頭から首筋、胴体、尻、尻尾…とずっと凝視したまま見送ったのではないかという印象。たてがみからしっぽまで馬の匂いを肺深く吸い込んでいる。
冷し馬濡れ毛のなりに拭ひやり
「濡れ毛のなりに」がちょっとわかりにくいけど、濡れた毛の流れにそって拭ってやっている様子なのだろうか。馬というモチーフはどうしても性的な連想を誘う。
露が露を散らす朝の髭荒剃り
 ひとつの葉から露が落ちて、下にある葉の露を散らす秋の朝。まるでアフターシェーブローションのコマーシャルのよう。

ながれ鳰 昭和四十一年
楤の芽をわかきけもののごとく嗅ぐ
 俳句ではよく主語が省略される。ゆえに妄想の余地がたっぷりと確保されている。楤の芽をてのひらに包んで荒々しく嗅いだ若くもない俺、なのか、あるいは「お前はまるで若いけもののように嗅ぐんだな」なのか。後者がいいな。
夜ざくらに屋を掩はれて眠り得ず
 一瞬「夜ざくらに攫われて」に空目して「何それ懐かしい!」と思いましたが屋を掩(おお)われてたのね。家の中からは桜は見えないはずなのに外に桜があるから眠れないと言う。なんと繊細な、なんと耽美な。実質攫われているも同然だと思う。
笑つてすぐ涙にじむよ鳥曇
 えっ。かわいい。

藁のねむり 昭和四十三年
中山法華経寺に荒行僧をたづねて
しづかな熱気寒行後の僧匂ふ
 はい。濡れてにおうシリーズです。いままさに寒行を終えた僧侶の熱気。身に張り付く白装束。寒行は冬ですが似たようなモチーフの夏の句では「滝行のすみし火照りとすれ違ふ」が第8句集『天上華』に入っています。

悪霊 昭和四十三年
若木ばかりの林がかもす朝曇
 グーテンモルゲン。僕たちのギムナジウムへようこそ。昭和の少女漫画を感じる。
起きてすぐ手触れしものに夏の露
 初めて読んだとき「誤読よな?」と思って10回ぐらい繰り返し読み直しましたがやはり朝のペニスを美しく表現したとしか思えない。一万歩譲ってペニスでないとしたら「キャンプの朝かな?」「野宿してみたのかな?」と思えなくもないがやはり無理がある。夏の朝の森林とベッドルームを頭の中で二重写しにしてむせかえるような青臭さを感じてください。
あたらしき水着の痒さ海まで駈く
 真新しい水着はきつくてぴっちりして痒い。その痒さを振り切るように砂浜を走って海へ。若さが弾けている。っていうか「痒さ」だけでいかにその水着がきつく肉体に密着しているか表現できているのがすごくないですか。水着の種類まで限定されている。絶対にサーファーパンツではない。ブーメランしかありえない。
潮焼にねむれず炎えて男の眼
 日焼けの痛みをこんなに艶かしく言うなんていけない子だな。日焼けだけが原因ではないと白状してるみたいじゃないか。

2. 第5句集『幻山水』もやばいぞ

自然を詠んでいるように見せかけてるけど…これ…もしかして男同士の愛なのでは……?
という句が多い句集です。
よく訓練された読者に向けて「みなさま、おわかりですね?」と差し出される優雅なほのめかしを楽しみましょう。

木晩 昭和四十七年
鬼羊歯の毛深き崖の多聞天
臼杵石仏(摩崖仏)を詠んだ四句のうちの四句目。毛深いのは鬼羊歯なのだが、筋骨隆隆たる多聞天(毘沙門天)に胸毛が生えているところを想像してしまう。

遠野の春 昭和四十八年
ザイルの露乾き男の匂ひせり
 これも一種の濡れてにおうシリーズと考えていいだろうか。乾いて(乾きかけで?)におうやつです。登山をしないのでよく知らないのですが、ザイル(登山用ロープ)ってにおいがつくような材質なんでしょうか。バックパックに入れていたら持ち主の体臭がついたり煙草のにおいがついたりするのかな。においに対して受け身になるのではなく積極的に嗅いでいく姿勢が感じられる。
葉月潮男の欲のうねりもて
充つるときむしろ声なき葉月潮
 二句セットで読んでください。「充つるときむしろ声なき」で意味的には切れているも同然。「充つる」の本当の主語は「葉月潮」じゃなくて「お前って」だろ。「お前って最初はあんあん騒ぐのに気持ちよくなりすぎると逆に静かになるよな」「し…しらねえよ!」「何恥ずかしがってんだよ」「うるせー」。

うらみ葛の葉 昭和四十九年
血をすこし薄めんと出づ夜の朧
 こういう抑制の効いた色気もすごくいい。
杉の花降らす杉山に僧入れば
 能村登四郎は僧侶に神秘性を託すことがままあるのですが、この句は僧侶と山の間で何かが通じ合っていそう。山の精霊が美僧を山に閉じ込めてしまいそう。
濃厚に渇きをそそる八重ざくら
 華やかな八重桜を見て喉が渇くというのは甘いもの食べ過ぎて喉が渇く感じなんでしょうか。なんとなくヴァンパイアみがある。
月ありて若さを洗ふ冬の僧
「洗ふ」は「月光を浴びる」の比喩なのか、月光の下で水垢離をしているのか、それとも洗濯をしているのか。洗濯だとしたら褌であるはずだ。俺にはわかる、わかるよ、としろう!!
大き手に恍惚と餅伸されゐる
 つきたての餅が餅取り粉を敷いた容器に移される。粉だらけにした手で撫でられながらその重みのままにののーんと伸びてゆく。その伸ばされてゆく餅に「恍惚」を見出している。擬人化というよりもむしろ餅と同化しているかのような。「大き手」はごつごつとした男の手と読んで餅の質感との対比を楽しみたい。

余談ですが「裸詣り」や「裸押し」という言葉を畳み掛ける「西大寺会陽」連作15句が収録されているのも『幻山水』。正直、西大寺会陽という祭りを知らないと特に面白くはないと思うのですが、祭りの歴史の中でここまで大喜びして筆を走らせたひとはいなかったんじゃないかという興奮ぶりが伝わるかと思います。

※以上、引用句はすべて『能村登四郎全句集』(二〇一〇年九月/ふらんす堂)より

3. 『能村登四郎読本』で散文を読むなら「欧州紀行」か「雁渡し」

『能村登四郎読本』には俳句だけではなく随筆や紀行文が入っています。
「欧州紀行」シリーズは能村登四郎が教育事情の視察のために団体で欧州10カ国を巡った際の思い出が書かれています。「おう、視察言いながらなんで闘牛みとんじゃワレ?」と詰め寄りたくなったりしますが(いやわかるよ、視察にも休日はあるよね、文化に触れるのも大事だよね)当時の日本人てこうだったんだ、というのが随所にうかがえてなかなかおもしろい。アテネ国立考古学博物館のポセイドン像をめっちゃほめてるところも良い。としろう’s ベストギリシャ彫刻はポセイドンです。

随筆なら「雁渡し」。時間がないひとは騙されたと思って「雁渡し」だけでも読んで。
ちょっとだけ引用します。

今でも時々思い出すふしぎな思いがある。それは少年の日にふと抱いた初恋に似た思いで、とうに消えてよい筈のものが三十年近い歳月を縷々と消えず生きつづいた。
その人は中学上級の時、一年だけ受持になったKという国語教師であった。

能村登四郎は中学校の恩師K先生に憧れて自らも教師になりました。
文句なしの名随筆ですが、手放しにキュンとする、といってしまっていいのかわからない。今よりもずっと難しい時代だったろう。注意深く言葉を選んで書かれているようにも感じる。
個人的には、能村登四郎本人がかつて男性に恋のような気持ちを持ったことと俳句作品が男性美に溢れていることはできるだけ分けて考えるよう心がけています。
(と言いながら一連の流れの中で紹介してごめん……)

石川美南「休休通信(1)」より

命令も指令も届かないような五月の猛暑に手足くるまれ  川谷ふじの

だれが振る鈴だれが書く墨の文字「命令の令、指令の令ね」  石川美南

「休休(やすみやすみ)通信」は “誰かと交互に短歌を作り、八首できたらはがきに刷って配るというシンプルな企画” (通信より引用)。今回はしりとりのように相手の短歌から要素を拾って次の歌に繋ぐスタイル。これはもしかしたらゲストによっては全然違う作り方になったりするんだろうか。

歌集『猫は踏まずに』

猫は踏まずに

白菜を白菜がもつ水で煮るいささかむごいレシピを習ふ 本多真弓『猫は踏まずに』

花山多佳子さんが栞で次のように書いている。

蒸し野菜はみな「もつ水で煮る」のだが誰も「むごい」なんて思わない。でも「白菜を白菜がもつ水で煮る」と言われてしまうと俄然、むごく感じられる。

そうなんですよ。つい、「獣の革を獣の脳の脂肪分でなめす(※平山夢明から得た知識)」とか「サボテンの針を抜いてサボテンに刺す(※臨死!!江古田ちゃんのお姉ちゃん)」とか思い出してしまうんですよね。

たぶん、これを「むごい」と感じられるのは、主体が同じ目に遭っているからだ。

引用した歌は実家への帰省がモチーフの「おののののろ」の一首だが、歌集の流れのなかで読むと、白菜のもつ水分で白菜がこげつくこともなく都合よく煮られるように、会社勤務の女性が会社の一員として、あるいは「長女」として、社会の期待に合わせて自らを抑圧して生きざるを得ない、そしてそれは自ら望んだことのように仕向けられているんだよねえええええええええうおおおおおおしんどいよおおおおおおおおおおおお!!!!!!

ということを考えてしまって、うううううう……。よくぞ書いてくださいました。

会社勤めをしたことのあるひと(主に事務系の女性)は頷きすぎて首が何個ももげる歌集だと思います。

背をむけてきみは翼をしまひこむ(ひにんするのはひとだけだつて)

という最高にすてきな「事後」とか、

リア充が爆死してゐるかたはらを手もあはせずに通りすぎたり

というユーモアとか、あとバレンタインBL短歌も入ってますよ!

打越マトリクス

バレンタインデー前後にTwitter上で佐藤文香考案「打越マトリクス」が(ごくごく局地的に)流行したのでこちらにも記録しておきます。

打越マトリクスまとめ https://togetter.com/li/1081579
打越マトリクス交換 https://togetter.com/li/1081596実駒さんによるまとめ)


以下は打越マトリクスの詳しいやり方が載っている『俳句を遊べ!』ほか佐藤さんの著書(の一部)。
(ここからお買い上げいただくと石原の私腹がすこしだけ肥えます。飴ちゃん1個分ぐらい。)



かばん6月号を読んでます(2)

IMG_8826

つづきです。前回はこちら

●「かばんゲストルーム」は俳人の福田若之さん。
タイトルが「題名に似て置き去りの蛇の皮」。題名も一句と数えれば13句の連作。禍々しい、陰鬱なイメージでいくのかと思ったら、最後の二句でふっと明るくなってすっきりとした読後感、というところに意外性があってよかった。

胃のなかに六月の煮崩れた街  福田若之

蛇モチーフを踏まえて読むと、やはり蛇の胃袋なのだろう。
人間の胃袋の内容物は咀嚼されたために元の形を保っていない。
蛇は丸呑みするから、蛇の吐いたネズミなどはまさに「煮崩れた」ような状態で出てくる。ちなみに吐き戻されたピンクマウスはこんな感じだそうです(リンク先のページ、スクロールして真ん中あたり)。
「煮崩れた街」は、それでも「街」だったとわかるだけの形を保っていそう。

脱ぐと時間をずれていく蛇ずれていく  福田若之

皮の中を蛇のからだが動いて模様と模様がずれながら脱皮していく。繰り返される「ずれていく」が伸び縮みの動きを繰り返す蛇の姿を思わせる。俳句による蛇の形態模写みたいで面白い。

さっき雨脚をぜんぶ自分で捥いでかなぐり捨てた虹だ  福田若之

空まで脱皮してる!

●評論ののぞき穴——あなたの書き方、教えてください!——
これは、評論やコラムでスランプに陥ったときに繰り返し読みたい特集でした。

評論を書くときは「歌書プラスワン」をルールとして意識している。学術書なり短歌外の作品なり、論じるテーマと同時代を表象した資料を一つは入れることで、批評の骨格が立体的になることを知ったのである。

山田航「評論の方法論が確立するまで」

(頑張れそうなときは)真似しようと思う。

また、飯島章友さんの「過ぎゆきにヘッドロックをかけられる」は、五年前に執筆した小論の反省。「うまくいかなかったパターン」を教えてくれるひとはなかなかいないので貴重な視点。
「労働・職業」の歌として引用した、

息つまるヘツドロツク、はつと思ふまにどたりといふマツトのひびき  前田夕暮『青樫は歌ふ』

は、プロレスではなくて十中八九アマレスだと思ってたから本当は「職業」の歌としてふさわしくなかった……という告白、ちょっと笑ってしまった。

特集の執筆陣による「評論七つ道具」はかなり具体的で今日から使えるアイデアに溢れています。
東直子さん「ポスト・イット ジョーブ透明見出し 44×6mm」。透明ふせん流行ってますね。
高柳蕗子さん「ネコ」「こたつ」この二つは個人的には諸刃の剣だと思っております。
久真八志さんおすすめの「Evernote」はわたしも愛用しています。共有設定にできるので、資料を共有したり、アイデア出ししたり、共同制作にすごく便利。最近1アカウントを3台以上(例:自宅PC・職場PC・スマートフォン)で同期するユーザーは有料になりましたが、有料で使う価値はあると思う。

ところで、こんな楽しい「かばん」にわたしの書いたものも載っております。
特集「酵母と桜」に「歌の外を見ない歌論」と題して高柳蕗子著『短歌の酵母』評を寄稿したのであります。
「歌の外を見ない評論」ってまるでディスってるようなタイトルですが、高柳蕗子ファンとして「短歌の酵母はいいぞ! 最高だぞ!」という話を「BL短歌」や『共有結晶』に言及しながら書きました。

“わたしはつねに腹を立てながら短詩型文学に関わってきた。”

“誰の人生も消費しない短歌評論が可能だという事実は、他人の人生をワイドショー的に詮索する鑑賞態度に違和感を覚え続けてきた者に勇気を与えてくれる。”

このあたりはわかるひとには「あああああー……↓↓↓」と共感していただけると思います。

かばん取り扱い書店

かばん6月号を読んでます(1)

IMG_8826

特集「酵母と桜」に寄稿させていただいた『かばん』2016年6月号から気になった短歌を。

いつもよりちょっと悪い子になる薬 ルームサービスのきつねうどんは  うにがわえりも

「いつもよりちょっと悪い子になる薬」までなら昭和の、ちょっとエロい歌詞をカマトトな態度で歌うタイプのアイドルソングみたいな言葉選び。「ルームサービスの」で、ふむふむ、実際の薬物じゃなくて比喩なのね、シャンパンかなフルーツかな、と思わせたところに「きつねうどん」でうっちゃりをかけるセンスに痺れた。なかなかこの流れで「きつねうどん」は出てこないですよ。「ルームサービスのきつねうどん」というとラブホテルの小窓から差し入れてドンと置き去りにされる、伸び切った、あるいは部分的に凍ったままの絶望的なきつねうどんしか思い浮かばないのだが、どうやったらそんなもので悪い子になれるのか。悪い子ってどういうのが悪い子なの。物事の捉え方のおかしい感じ、状況のわからなさが逆にいい。

履歴書の四角いところ三センチくらいの笑顔だけ貼りつける  藤島優実

「履歴書の写真貼付欄に三センチくらいの笑顔の写真を貼りつけた」ということではなく「履歴書に写真を貼るみたいに(うわべだけの)笑顔を作ってみせた」ということなのでしょう。普段「四角いところ」と言うときに長細い形ではなく真四角に近いものを指して言ってるんだなということに気づかされる。就職活動を想起させるんだけど、魂までは売り渡してない、と同時にその場に器用に順応することもできてないような。

祖母が遺していった薄手のシャツのなかでまだペイズリー柄が動いています  小坂井大輔

そうなんだよね。ペイズリー柄って動くんだよ。うちのもわりと動く。

<黒王子>。<白王子>との関係と見なしてしまう。「腐ってやがる」。  ミカヅキカゲリ

※「関係」に「カップル」とルビ
言わずと知れたことですが「腐ってやがる」は『風の谷のナウシカ』に出てくる台詞で、ネットスラングとしては「腐女子/腐男子」に対しても使われる言葉。「腐ってやがる」は説明的に思えてしまうけど、「黒王子」と聞いたら黒王子×白王子という構図を自動的に妄想してしまうことに関しては共感せずにはいられない。

モザイクの向こう側にはあるだろう図鑑に載っていない性器が  谷川電話

「図鑑に載っていない」がすごい。モザイクの向こう側の性器を想像することはあっても、そこに「図鑑」というものを持って来れるなんて。「モザイクの向こう側」の「性器」は性的な欲望を向けられるものとしてあるはずなのに、「図鑑」によって「性器」が虫や魚や植物みたいなものと並べられて、性欲から少し遠ざかる。(逆に、現実に図鑑に載っている動植物は性器そのものと言えるのではないか、とも考えてしまう。)性器に関して、図鑑に載っていない虫を追い求めるようなまっすぐな探究心を向けるひとというのを想像するとちょっとおかしい。

猫だけが入れる扉のからんころんこの世ですこしかみさまに流行る  柳本々々

壁の下の方に設置された小さな猫ドア。神様が猫ドア鑑賞をしてるんじゃなくて、猫ドアを出入りしてると考えた方が面白い。多神教だとしたら「あの、猫用のやついいっすよ」「まじ? いつも適当に壁抜けてたわ」「いやあ、あのからんころんが最高なんすよ。つぎ人間界行くときぜひ。猫の背中に乗ったまま通るのがまた良くて〜」みたいな神様同士の口コミがで流行が広がったはずだ。一神教の神様のマイブームを「流行る」と言っているのだとしてもそれはそれでかわいい。ところで猫ドアって「からんころん」って音がするんでしょうか。製品によっては鳴るのかな。「からんころんこの世」という連なりが心地よい。

薔薇食めば薔薇に骨あり骨吐けば銀河宇宙や食はさびしゑ  睦月都

あー! 彗星の尻尾で魂を洗われるような耽美感! きもちいい!
薔薇の骨は魚の骨みたいな骨なんだろうか、それとも獣の骨みたいな骨なんだろうか。どちらかというと獣の小骨っぽいような気がする。宇野亜喜良の絵柄で脳内でアニメーションにしました。「食はさびしゑ」って、食べ物らしいもの食べてないのにそれを「食」と呼んでいる、この、霞食って生きてる感じ大好き。「ゑ」がね、これ自体が口から出てきそうな字ですよね、ペッてしたとき。

3年目のおかたん。

 
『岡大短歌3』から好きな歌を紹介します。

インスタントコーヒーを手にしばらくは終わりから剥がされる夜を見て 高岡晶美

連作の文脈からすると、「学生生活の終わり」から剥がされて「社会人生活」へ移行しなければいけなくなることを言っているのだと思うけど、「終わり」から「剥がされる」という捉え方が面白い。じんせいにはこういう時間がときどきありますね。終わった瞬間次の場所にいるのではないんだよね。
本業ニートで子供舌のわたしからすると「インスタントコーヒーなんてそんな、ワーカホリックみたいな飲み物まだ飲まなくていいのに……(ミロのほうが美味しいのに)」と思ってしまうが、この歌の人物はもう社会人生活に適応しはじめているのだ。

午後九時に半額になるスーパーに段ボールだけをもらいにゆく日 上本彩加

これも文脈から卒業→引越しのため、と推測される。いつもなら午後九時の半額を狙ってお惣菜を買いに行っていたスーパーで、その日は買い物をせず、段ボールだけをもらう。
たまったポイントはちゃんと商品と交換できただろうか。引越しの前に荷物を増やすわけにもいかないから諦めたかもしれないな。

通過する新幹線に引っ張られゆがんでしまったようだ、世界は 川上まなみ

新幹線で移動していったひとを見送ったあとの歌だろうか。ひらがなの「ゆがんでしまったようだ」のところが、上の句の漢字との対比で飴をひゅっと引っ張って伸ばしたように薄くなって見える。喪失感なんて言っていないのに喪失感の大きさを感じさせる。

夕焼けとあなたのからだをいっぺんに抱きしめたくて三歩下がった 山田成海

いい意味で変なところがある山田さん。ええ。わかります。映画の言葉で言うならマジックアワー。かっこいい背景に立ったかっこいいあなたを全部まとめて抱きしめたい。至近距離に立つと顔しか見えない。ちょっと下がる。ぎゃー!! めっちゃかっこいいー!! からのだいしゅきホールドです。三歩はだいしゅきホールドの助走にちょうどよい距離です。

岡大短歌会(blog)

真逆にいたり、引き合ったり。

S極N極
 

アネモネアネモネ顔を上げたらその口にアネモネを活けているような愛  野口あや子
 
葉牡丹に霜のきらめき 水たばこ  佐藤文香

佐藤文香野口あや子のユニットS極N極による『S極N極』。

俳句・短歌とエッセイに、みんな大好き安福望さんのイラストがついた贅沢なZINE。

個人的なツボは、野口さんがカラオケで歌うのが相対性理論、山口百恵、椎名林檎と歌集のイメージ通りなところと、さとあやが薄毛愛を語っているところ。

最近自分が関わったものは何故か食がテーマになる本が多くて(『線と情事』 『別腹』)、ついでにわたしが尊敬して止まない『生活考察』vol.05も “食” 本考察という特集を組んでいたし、食、流行ってるのか、いや、食わずに生きていけるひとなんていないし人類普遍のテーマだからか、などと思っていたら『S極N極』にも野口さんによる「あなたと食いつなぐ短歌」という文章が。
こんな短歌が紹介されてます。

買ったんはボルビックやったのに半分くらい飲むとクリスタルなんとかなんですわええかげんなもんですわ  吉岡太朗

お取り寄せはこちらから。
 
 

密着!俳句警察24時

週刊俳句第365号特集「悪い俳句」に「俳句警察24時~『遊戯の家』に潜入せよ!~」を寄稿しました。(イラストつき!)

もともと「俳句警察」や「歳時記警察」というのは表現よりも規範を優先する俳人のことを揶揄して言った言葉(……と、わたしはとらえているんですが、合ってますでしょうか)なのですが、今回の記事では文字通り二人の刑事が登場して事件性のある俳句を捜査します。

俳句警察

(右)山さん。ベテラン刑事。一人娘を溺愛している。
(左)インバネス。新米刑事。(日本の一般的な警察組織では刑事同士が『ジーパン』『テキサス』『スニーカー』といったニックネームで呼び合う習慣があるらしいので、俳句っぽいニックネームをつけてみました。)

ちなみに、『遊戯の家』のほかに捜査対象として考えられていた句集・アンソロジーは次のようなもの。
悪い俳句、探してみてくださいね。