Ryan McGuireによるPixabayからの画像
自作の俳句の「意味」を聞かれると、わたしはとても困る。
最近はそんな機会もめっきり減ったけれど、俳句をやっているひととして俳句を普段読まないひとに接するとき、その初対面の日にうっかり自作の句を見せるはめになった、そんなシチュエーションで相手がこう言うことがあるじゃないですか。
「へええええ、独特の雰囲気がありますねー。で、意味は?」
意 味 は ・ ・ ・ ?
意味なんかねえよ!
俳句に意味なんかあってたまるかよ!
そんなに意味がほしけりゃ新明解国語辞典読んでろよあれは読み物としておもしろいんだよわたしの俳句よりよっぽどおすすめだバーカバーカ!
という気持ちは胸にそっとしまって、こういうシチュエーションの対処法についてすこし考えたい。
先日、YouTubeに上げた佐々木紺さんの俳句を鑑賞する動画でも言いましたが、
俳句を読んでわからないって思うときって大雑把に言うなら次の2パターンがあると思うんですよ。
(1)俳句に使われている単語の意味がわからない場合
(2)単語の意味はわかるのに、俳句全体読むと意味がわからない場合
(1)は、
穀象の群を天より見るごとく 西東三鬼
を例にとれば、「穀象」はパッと見て意味がわからないひとも多いだろう。わたしも俳句以外で出てきたら一瞬なんのことかわからないと思う。
穀象(こくぞう)は米びつの中に育つ小さな虫(コクゾウムシ)。一人暮らしのひとが久しぶりに炊事をしようと米びつを開けたら中で小さな命が育まれていて「ウヤァァァッ!!!」となるやつだ。夏の季語。
国語の授業なら「ごとく」も説明してもらえるだろう。比況の助動詞「ごとし」の連用形で口語訳するなら「ように」ですよ、って感じで。
つまりこの句は「(私は)コクゾウムシの群を天の上から見下ろすように(見る)」というような「意味」で、更にそこから膨らませて神が天の上から人間を見下ろすイメージを読み取ってもいいと思う。ムスカ大佐の台詞を思い出すのもいい。
とにかくこの句の意味を聞かれた場合は「穀象」だけ説明すれば「ウヤァァァッ!!!」となって伝わるだろう。
(2)は、たとえば
エスカルゴ三匹食べて三匹嘔く 金原まさ子『カルナヴァル』
を「わからない」って言われたようなとき。「嘔く」はたぶん「はく」なんだけど「はく」と読ませるのは一般的な使い方ではない。それでも「嘔吐」の「嘔」なので意味はわかる。だから意味を聞かれると「ええっと、エスカルゴを、みっつ食べて、みっつとも吐いちゃった、ていう意味です……」という同語反復で答えることになってしまう。
こういう難しくない単語で構成された句で「意味」を聞かれた場合は、納得してもらうためには「どう読んだら面白いか」「どう鑑賞するか」を話さなければいけない。
サイゼリヤ行ったときのこと考えてほしいんですけど、お料理のエスカルゴって数えるときふつうは「一個、二個」って数えますよね? 「三匹」って数えることで動物であるということ、いかにもカタツムリ〜! ってかたちが強調される。そこがまずちょっぴり気持ち悪い。つぎに「三匹嘔く」についてですけど、吐瀉物って形がなくなるから普通は食べたものの個数なんかわからない。それなのに「三匹嘔く」って書いたことで、蛇のように丸呑みしたものがそのままの形で吐き戻されたような異様な雰囲気が醸し出されています。三匹のリフレインと字余りのリズム感が心地よく、詠まれている内容はグロテスクなのに爽快。という感じでわたしは読みました!
と言えばおそらく「へ〜」と一応は納得した顔をしてもらえるはずだ。
俳句の季語はとっくに死語だったりニッチな詩語だったりするので(1)は非常によくあるわからなさ。(2)は、口語的な俳句でよく発生する(坪内稔典とか)。
(1)の場合の説明だけでわかってもらえなかったら第二ラウンド(2)のスタートだ。
誰かに俳句の「意味」を聞かれたとき、難しそうな単語があれば単語の意味の説明から入り、つぎに鑑賞を語るのが自分の中では定石である。
と、これは他人の作った俳句の話。
自作について「わからない」「意味は?」という反応がきた場合には、すごく困る。まず、わたしは難しい言葉をあまり知らないので(1)は季語の説明程度で事足りるとして問題は(2)のように鑑賞を語らなければいけないとき。
「いや、俳句は情景を書くものなので景色に意味がないように俳句にも意味はないんですよ。ちょっとあんたカメラロール見せてごらんなさいよ。このタピオカ持ってる写真、意味はありますか? ないですよね? じゃあこっちのマリトッツォは? 意味なんてないですよね?」
などと詰め寄っても感じが悪いだけである。いい印象を残したい。丁寧ないいひとだと思われたい。あわよくばかしこくてかっこいい俳人のふりがしたい。
しかし、自分の俳句を他人が読むように鑑賞するのは難しい。
軽自動車も猪も無事ですか 石原ユキオ
この句に対して「意味は?」と聞かれたとしよう。意味は「軽自動車も猪も無事ですか?」って意味だ。難しい言葉はない。そのまんまだ。自作についてはつい成立背景を語ってしまいそうになるが「うちの近所は猪がときどき出没するあたりでして、とはいえ幸いなことにわたしはまだ野生の猪と遭遇したことはなく」これは身の上話だ。俳句とあまり関係がない。鑑賞……鑑賞しなきゃ……。しかし自作を「鑑賞」しようと身構えると、
ええっと……軽自動車と猪がぶつかる事故があったらしい……みたいな……//////
などとモジモジしてしまう。なんとなく恥ずかしい。こんなふうに思ってしまうのはわたしを含めて俳句を書くひとの多くが「自句自解はすごく恥ずかしい、鼻毛が出ているよりも、ショートパンツからおいなりさんが見えているよりも恥ずかしい、ぜったいにしてはならない、したり顔で自句自解した者は市中引き回しの上ファラリスの雄牛にぶちこまれ年に一度の短冊供養の火によって炙られるであろう!」とマインドコントロールされているからだ。だから無理に自作を鑑賞しようとするとなんだか変な感じになってしまう……。
でも、わたしは……俳句を普段読まないひとに……疑問を解消してもらいたいし……いい印象を与えたいんです。
なんならいっそ……俳句を好きになってもらって……俳句の世界に引きずり込みたいんです……(アッ! つい本音がッ!)。
そこで、これはわたしなりのTips的な感じなんですが、自作について「わからない」と言われたり「意味」を聞かれたりしたときは「制作意図」を話すと決めました。ここで役立つのは無印良品文体です。
軽自動車と猪の安否を気遣うやさしいことばから双方がぶつかる事故があったことをほんのりと示唆しました。
ほんらい害獣である猪は怪我をしたり死んだりしても構わないにもかかわらずわざわざ心配することにより自然なおかしみを表現しています。
ほら! これならきっと納得してもらえるはず!
ふう……。
で、わたしはなにが言いたいんだっけ。あ、そうだ。
俳句に意味なんかねーよという気持ちは変わりませんが、意味を聞くひとは言葉の上では「意味」を尋ねているようでありながらより正確に言えば「鑑賞法」を尋ねていると思えばいいですよね、というような話でした。だと思います。
※なお、今回の文章に関してはわたしが憑依系俳人であることや憑依俳句については一旦忘れて読んでもらいたい。話がややこしくなりすぎるので。