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天使かよ! 山田耕司『不純』は非常によいBLだからぜひ読んでみてほしい

※BLが好きでなおかつ俳句にもちょっと興味がある方向けの記事です。俳句が好きでBLにもちょっと興味がある方にもお楽しみいただけるかと思います。能村登四郎沼の歩き方続・能村登四郎沼の歩き方も併せてどうぞ。

Photo by Alessandro De Bellis on Unsplash

友人Mによると最近の石油王は受が主流(注1)なのだそうです。

向日葵よ目隠しは本当に要らないんだな  山田耕司『不純』

これはMさんが石油王受に認定した句です。
尋ねられている方が石油王ということですね。ほほう…。

目隠しをするシチュエーションとしてわたしが最初に思い浮かべるのは処刑ですが、「本当に」なんて念を押して質問している(=コミュニケーションが成立している)ことで緊迫感は弱まりどことなく間の抜けた性愛の場面のようにも思えます。
よしんば、
「目隠しなんかいるか。さっさと殺せ」
「おいおい。お前はそうやっていつも俺の親切心を踏みにじるんだ。せっかく用意してやったのに。本当にいらないんだな?」
という処刑の場面だったとしても、いや……むしろ完全にBLですね。(注2)

Photo by Rishab Lamichhane on Unsplash

能村登四郎を耽美的な翳りを帯びたJUNEとするならば、山田耕司さんの俳句はBL的な明るさとユーモアに溢れています。ちょっと極端な例を比べてみますが、

夏痩せて少年のゐる樹下を過ぐ  能村登四郎
鷹の眼をもつ若者とひとつ湯に

といった感じで年嵩の男から若者を眩しく見がち(ベニスに死すか!)な能村登四郎に対して、山田耕司は、

春それは麦わらを挿す穴ではない  山田耕司
つむじ嗅ぐ理由など知らず卒業期
泣く人に海鼠を見せてをりました
みつ豆の叱る側だけ泣きながら

こんなふうに同年代の男の子ふたり(年齢の近い先輩後輩?)のじゃれあいっぽい句が目立ちます。
もうちょっと引用するからとりあえず読んでみて。(以下引用はすべて山田耕司『不純』より)

濡らさるるこの奥ゆきをところてん
名月や背をなぞりゆく人の鼻
重陽の嗅ぎつくしてもなほ二人
乳首など要らぬといふを鳥わたる
耳咬むに至らず会釈春隣
妙な声出すまで春の泥うがつ

どうだ。
読んでるこっちが妙な声出ちゃうだろう。

とくに「ところてん」は直截的すぎてどう受け止めていいかわからない。(注3)

もうこれだけで『不純』が男×男として読むことで輝きを増す句が多い句集っぽいぞ! というのは十分にお察しいただけるかと思いますが、『不純』の面白い点は「そもそもこのひとたちは人間なのか」という疑問がわいてくるところです。わたしは男同士が好きだから男同士だと思って読んでるけど、性別以前の問題として、ヒトだと思っていいんだっけ、という。
というのも、まるで自分の肉体を珍しがるような句がたくさんあって、

たんぽぽに穴ある顔を寄する吹く
顔に穴があるのは当たり前では……?

鼻のあなに舌はとどかずヒヤシンス
試した。うん。それ試したよ子供の頃。

いきんでも羽根は出ぬなり潮干狩
それは試したことないな。むしろなぜ出ると思った?

河童忌を吐かずにゐられなくて息
吸って吸って吸って止めてたん?

囀りやくちびるもまた穴のふち
いろんな穴にいろんなふちがあるよね!

眼の球はぬれつつ裸ふきのたう
なぜそんな純真な目で下ネタに寄せるんだ。

豆の花おのが耳穴は覗けず
ってかお前、穴が好きだな。

つちふるやたて線上のここは臍
お外ではお臍しまってもらっていいかな?

座布団は全裸に狭しほととぎす
着て!

突っ込みを入れながら読んでしまいますが、この(ヒトの肉体を珍しがるような一言)+(季語)の組み合わせ、めちゃくちゃぐっときませんか。おかしなことを言っているというのに、季語との組み合わせが絶妙でピュアな透明感ときらめきが溢れてしまう

自分の肉体を不思議がるのは人間の肉体を得てから日が浅いひとの感覚ではないかと思います。子供とか、天使をやめて人間になったとか。そういう意味では推しが人間界に暮らすことになった天使や悪魔という方や、モノや概念(鉄道・武器・国 etc…)の擬人化ジャンルを愛する方ならなおさら楽しめる句集かもしれない。(注4)

山田耕司句集『不純』が気になったら、ぜひ週刊俳句の下記の回を読んでみてください。

第594号 2018年9月9日
佐藤文香プロデュース
特集 山田耕司句集『不純』を読む

版元のサイトはこちら

(注1)その後調べたところ石油王受のサンプル数が少なかったため石油王受が主流とまでは言い切れないとの訂正が入りました。「私の好みというバイアスがかかっていましたことをここにお詫びします」友人M談。
(注2)当方光属性のため、このあとの展開は「クソッ。サプライズが台無しだ」と言いながら目隠しを床に投げつけてポケットから指輪を出したところで処刑されかかった方のひとに「ふざけんな」って蹴り飛ばされるといいと思います。
(注3)竿に触らずに菊門の刺激だけで腎水が出ちゃう方のところてんを想像せずにはいられない! と識者の間では有名。
(注4)俳句の本を読むとき、「イメソン」的なものとして「イメ俳」を探すと楽しいです。

続・能村登四郎沼の歩き方

  Radek Pestka

能村登四郎が気になり始めたみなさんにちょっとショックなことを言います。
能村登四郎先生ってね、故人なんです。2001年に90歳で亡くなりました。
つまり新刊が出ません!(イヤァァァァァー!!!)

でも。

新刊は決して供給されませんが、生涯に句集が14冊(!)も出てるので泣かないで。わたし自身全然目を通せてない部分もいっぱいある。見逃してる名句が山ほどあるに違いないので、みんなで大事にdigりましょう。

さて、前回は第3句集『枯野の沖』第5句集『幻山水』を中心に紹介しました。
今回は第8句集『天上華』第9句集『寒九』から紹介していくよ。

1. やっぱり僧が好き『天上華』

能村登四郎といえば僧侶俳句。僧侶が登場しない句集は第2句集の『合掌部落』だけ。(合掌部落にも僧侶俳句あったよ! という場合は教えてください)『天上華』には「美僧」が登場します。

春怨 昭和五十九年
逃げ水に逃げられて逢ふ美僧かな
 逃げ水は春の季語です。春の陽気。逃げ水を追いかけるように歩いていくと当然その逃げ水は消えて、そこに立っていたのはひとりの美僧。「美僧」でも「僧侶」でも音の数は同じなのに、敢えて「美僧」と言いたかったんだね。「杉の花降らす杉山に僧入れば」と並んでほとんどファンタジーの世界。

竹皮を脱ぐや僧衣も脱ぎすてに
 全集で読むと美僧を出したのと同じページにこの句があるんですよね。さっきの美しい魔物のような美僧がバサッと脱ぐとこ想像してしまう。グッジョブとしか言いようがない。発光してそう。

一雁 昭和五十六年
滝行のすみし火照りとすれ違ふ
 この句も僧侶俳句と考えていいかもしれない。滝の冷たい水に打たれた後の身体から「火照り」を感じた。っていうか火照りを感じる距離なのかよ。こういう能村登四郎の前のめりなところが好きだ。

午後からの雪 昭和五十七年
削るほど紅さす板や十二月
 ひええ! 色気がやばい! 鉋ををかけて木の肌を削っていくとだんだん赤みが見えてくる。単に木工の様子を言っているはずなのに艶やか!「紅さす」という言葉は口紅を連想させるし、人の肌が紅潮することも思わせる。「十二月」なんて素知らぬ顔で時候を季語として置いていくさりげなさが憎い。能村登四郎の句には、
身を裂いて咲く朝顔のありにけり『寒九』
散りしぶる牡丹にすこし手を貸しぬ『菊塵』
のように「美には痛みが伴う」とでも言いたげな句がときどきありますよね。滝行の句にもほんのりその空気は感じる。BDSMじゃないですか。

天上華 昭和五十八年
宿敵のゐるはるかへと豆を打つ
 ぜひ「敵手と食ふ血の厚肉と黒葡萄」とセットで読みたい。豆まきの豆を宿敵のことを思って撒くけれど、その宿敵ははるか彼方にいる。もう二度と会わない相手なのかもしれない。すでに近くにはいない宿敵にわざわざ豆を撒く必要ある? 追い払う気あるんだろうか。むしろ気づいてほしいという祈りなんじゃないのか。まるで教室の少し離れた席に向けていたずらで投げる消しゴムみたいだ。無視すんなよ、俺にかまってくれよ、お前と喧嘩できない人生なんてつまんねえよ、と。

仕置場にやや似て寒の水垢離場
 仕置場というのは処刑場のことなんだそうです。水垢離の過酷さを処刑場にたとえている。それってちょっと不謹慎ではないでしょうか。不謹慎なのは妄想がはかどりすぎるわたしでしょうか。BDSMじゃないですか。(2回目)

少年のわれゐて蝌蚪を苛(さいな)める
 蝌蚪(かと)、オタマジャクシのことですね。春の句ですよね。田んぼのわきにしゃがみ込んで棒でオタマジャクシの群れを散らして遊んでるんでしょうね。お日様の下でするちょっぴりうすぐらい遊びです。なぜだろう、そこはかとなく性的なものを感じる。お察しいただきたい。

たらの芽や男の傷は一文字
 男の! 傷って! なんですか!?

2. 『寒九』−−いまさらの「男同士もいいなあ」

昔むかし 昭和六十一年
男同士もいいなあと見て松の花
『寒九』のいちばんの突っ込みポイントは「男同士もいいなあ」です。
いや、知ってるし! ずっと男の美ばかり語ってきたじゃん、あなた!
でも、リアルタイムで作品を追っていたファンは「ふうん?」ぐらいでスルーしたかもしれません。毎月少しずつ読んでいたら、他のいろんな句にまぎれて男同士の熱い句が多いことに気づかなかったんじゃないのか。気づいたとして言いにくかっただろう。

芭蕉わすれ 昭和五十九年
夏果ての男は乳首のみ老いず
 能村登四郎、老いと若さを語りがち。この句では乳首に着目した。いやしかし、これは良さを語りにくい句だよ、即物的すぎて。夏の終わりだから夏痩せもあるのでしょう。枯れたような上半身に、ただ乳首だけは若き日とおなじ佇まいで存在している。ご自身のことをお詠みになったと考えるなら「妖艶」と言ってしまうのは憚られるけれども、故人だからいいですか。ちなみに下半身にフォーカスした句もあります。
今にある朝勃ちあはれ木槿咲く『菊塵』
こんなことも言っちゃう。
夏痩せて身の一筋のものやせず『民話』
えー……。

心づくしの秋 昭和五十九年
鷹の眼をもつ若者とひとつ湯に
 関係性を語れる句はいいな! 鷹のような鋭い眼をした若者。それを見ている自分も湯に浸かっている。二人とも裸で。「鷹」はいちおう冬の季語だけど、比喩として使われているから実在の鷹のことは詠まれていない。実質無季ですよね。だけど「鷹の眼をもつ若者」に生々しい実在感があって読者の脳裏に情景が広がる。語り手が若者を見ているということは、若者もまた語り手である年上の男を見ているわけです。鷹って捕食者ですよね。やだ〜〜〜! 食べられちゃう〜〜〜!

湖の地蔵盆 昭和六十一年
素裸の僧ゐてやはり僧なりし
 僧侶が僧衣を着ていれば当然僧侶に見える。しかし僧衣を脱ぎ捨てて素裸になってもやはり僧侶に見えると言う。これも無季っぽく見えますが「裸」が夏の季語です。素裸であってもそのひとの立ち居振る舞いがどこか僧侶らしいのだろうか。僧侶以外でスキンヘッドにするひとは目つきが極端に鋭かったり彫物があったりするから(※仁義なき戦いシリーズを何度もリピートしているひとの意見です)そこでなんとなくわかるのかもしれない。「裸」という季語を使う人は多いけれども、「裸の僧侶」について言及したのは能村登四郎ぐらいのものではないでしょうか。

はい。
ということで今回は以上です。
先日友人のMさんとメッセージのやりとりをしていてこんなことを言われました。

「能村登四郎の俳句ってBLというよりむしろJUNEなのでは」

そうだ。
ハッとしました。
植物に託されたエロスのむせかえるようなキラキラ点描世界はたしかに “JUNE” だ。男性美や男性同士の関係性が読み取れるとわたしは自動的に “BL” って言ってしまいがちだけど、能天気にラブラブハッピーだったり受がでかくてごつくてオラオラしてたりする “BL” が生まれる以前の空気感が能村登四郎の作品にはある。

それじゃあ、もっと現代の “BL” っぽい俳句を作る作家さんはいないの?

え。
いるじゃん。

少年兵追ひつめられてパンツ脱ぐ 山田耕司

どうですか。
九州男児先生を思わせるこのギャグ漫画っぽさ。
次回、山田耕司さんの俳句を紹介します!!

能村登四郎沼の歩き方

能村登四郎読本

能村登四郎が訪れた金陵山西大寺(岡山市)で撮影しました。

この記事は「俳人能村登四郎は男×男的な意味でたいへん熱い作家だと聞いている」「能村登四郎のライフワークは男性美の追求だったんですよね?」「美僧! 美僧!」というような方向で能村登四郎が気になり始めたひとに向けて書いています。

さて、能村登四郎を読みたいと思ったとき、図書館に行って『能村登四郎全句集』もしくは『能村登四郎読本』を書庫の奥から引っ張り出してもらうことになるのではないでしょうか。全集は完全に鈍器だし、読本にしたって読むところがいっぱいあってどこから手をつけていいかわかんない。ご安心ください。能村登四郎の魅力がぎゅっと凝縮したおすすめの箇所を紹介します。

1. まずは第3句集『枯野の沖』を読もう

悲母変 昭和三十四年
麦刈りの少年の腋毛おどろかす
 三島由紀夫的な!? とツッコミを入れてしまったなら既にあなたは能村登四郎沼の民です。おめでとうございます。

同温 昭和三十六年 – 三十七年
夏痩せて少年のゐる樹下を過ぐ
 完全に夏に負けている老いた自分と涼しげな木陰にいる少年の若さの対比。
シャワー浴ぶ若き火照りの身をもがき
 シャワーを浴びる仕草ってもがいているように見えるかもしれない。それを「若き火照りの身をもがき」と表現してしまう。これも「若くない自分」が「若者」を見ている句と考えていいと思う。水滴を弾くギリシャ彫刻のような肉体を想像させてくれます。
敵手と食ふ血の厚肉と黒葡萄
 ライバル同士で! 血の滴るステーキと黒葡萄を! 食べているんですね! それもまたひとつの闘いのように! 肉と葡萄という組み合わせの地中海っぽさ。やっぱり何かギリシャを感じる。ちなみに能村登四郎が実際にギリシャを訪れるのは昭和42年です。
青年なまめく乾草ぎつしり納め来て
蓼あかし売るときちよつと豚拭かれ
 乾草の句と豚の句はぜひセットで読んでほしい。豚農家の話ではないのだが「ゴッズ・オウン・カントリー」というボーイ・ミーツ・ボーイな映画を観てほしい。汗臭さ+獣臭さ+若さのきらめき。

露一粒 昭和四十一年
冷されし馬なりすれちがひざま匂ふ
 濡れた何かとすれ違うときににおいを感じる俳句というのは、能村登四郎全句集の中でときどき遭遇するのですが、これは馬。「冷し馬すれちがひざま匂ひけり」とか書けば定型に収まるだろうに、敢えての破調。強い意図を感じませんか。字余りによって馬の長さが強調され、馬の頭から首筋、胴体、尻、尻尾…とずっと凝視したまま見送ったのではないかという印象。たてがみからしっぽまで馬の匂いを肺深く吸い込んでいる。
冷し馬濡れ毛のなりに拭ひやり
「濡れ毛のなりに」がちょっとわかりにくいけど、濡れた毛の流れにそって拭ってやっている様子なのだろうか。馬というモチーフはどうしても性的な連想を誘う。
露が露を散らす朝の髭荒剃り
 ひとつの葉から露が落ちて、下にある葉の露を散らす秋の朝。まるでアフターシェーブローションのコマーシャルのよう。

ながれ鳰 昭和四十一年
楤の芽をわかきけもののごとく嗅ぐ
 俳句ではよく主語が省略される。ゆえに妄想の余地がたっぷりと確保されている。楤の芽をてのひらに包んで荒々しく嗅いだ若くもない俺、なのか、あるいは「お前はまるで若いけもののように嗅ぐんだな」なのか。後者がいいな。
夜ざくらに屋を掩はれて眠り得ず
 一瞬「夜ざくらに攫われて」に空目して「何それ懐かしい!」と思いましたが屋を掩(おお)われてたのね。家の中からは桜は見えないはずなのに外に桜があるから眠れないと言う。なんと繊細な、なんと耽美な。実質攫われているも同然だと思う。
笑つてすぐ涙にじむよ鳥曇
 えっ。かわいい。

藁のねむり 昭和四十三年
中山法華経寺に荒行僧をたづねて
しづかな熱気寒行後の僧匂ふ
 はい。濡れてにおうシリーズです。いままさに寒行を終えた僧侶の熱気。身に張り付く白装束。寒行は冬ですが似たようなモチーフの夏の句では「滝行のすみし火照りとすれ違ふ」が第8句集『天上華』に入っています。

悪霊 昭和四十三年
若木ばかりの林がかもす朝曇
 グーテンモルゲン。僕たちのギムナジウムへようこそ。昭和の少女漫画を感じる。
起きてすぐ手触れしものに夏の露
 初めて読んだとき「誤読よな?」と思って10回ぐらい繰り返し読み直しましたがやはり朝のペニスを美しく表現したとしか思えない。一万歩譲ってペニスでないとしたら「キャンプの朝かな?」「野宿してみたのかな?」と思えなくもないがやはり無理がある。夏の朝の森林とベッドルームを頭の中で二重写しにしてむせかえるような青臭さを感じてください。
あたらしき水着の痒さ海まで駈く
 真新しい水着はきつくてぴっちりして痒い。その痒さを振り切るように砂浜を走って海へ。若さが弾けている。っていうか「痒さ」だけでいかにその水着がきつく肉体に密着しているか表現できているのがすごくないですか。水着の種類まで限定されている。絶対にサーファーパンツではない。ブーメランしかありえない。
潮焼にねむれず炎えて男の眼
 日焼けの痛みをこんなに艶かしく言うなんていけない子だな。日焼けだけが原因ではないと白状してるみたいじゃないか。

2. 第5句集『幻山水』もやばいぞ

自然を詠んでいるように見せかけてるけど…これ…もしかして男同士の愛なのでは……?
という句が多い句集です。
よく訓練された読者に向けて「みなさま、おわかりですね?」と差し出される優雅なほのめかしを楽しみましょう。

木晩 昭和四十七年
鬼羊歯の毛深き崖の多聞天
臼杵石仏(摩崖仏)を詠んだ四句のうちの四句目。毛深いのは鬼羊歯なのだが、筋骨隆隆たる多聞天(毘沙門天)に胸毛が生えているところを想像してしまう。

遠野の春 昭和四十八年
ザイルの露乾き男の匂ひせり
 これも一種の濡れてにおうシリーズと考えていいだろうか。乾いて(乾きかけで?)におうやつです。登山をしないのでよく知らないのですが、ザイル(登山用ロープ)ってにおいがつくような材質なんでしょうか。バックパックに入れていたら持ち主の体臭がついたり煙草のにおいがついたりするのかな。においに対して受け身になるのではなく積極的に嗅いでいく姿勢が感じられる。
葉月潮男の欲のうねりもて
充つるときむしろ声なき葉月潮
 二句セットで読んでください。「充つるときむしろ声なき」で意味的には切れているも同然。「充つる」の本当の主語は「葉月潮」じゃなくて「お前って」だろ。「お前って最初はあんあん騒ぐのに気持ちよくなりすぎると逆に静かになるよな」「し…しらねえよ!」「何恥ずかしがってんだよ」「うるせー」。

うらみ葛の葉 昭和四十九年
血をすこし薄めんと出づ夜の朧
 こういう抑制の効いた色気もすごくいい。
杉の花降らす杉山に僧入れば
 能村登四郎は僧侶に神秘性を託すことがままあるのですが、この句は僧侶と山の間で何かが通じ合っていそう。山の精霊が美僧を山に閉じ込めてしまいそう。
濃厚に渇きをそそる八重ざくら
 華やかな八重桜を見て喉が渇くというのは甘いもの食べ過ぎて喉が渇く感じなんでしょうか。なんとなくヴァンパイアみがある。
月ありて若さを洗ふ冬の僧
「洗ふ」は「月光を浴びる」の比喩なのか、月光の下で水垢離をしているのか、それとも洗濯をしているのか。洗濯だとしたら褌であるはずだ。俺にはわかる、わかるよ、としろう!!
大き手に恍惚と餅伸されゐる
 つきたての餅が餅取り粉を敷いた容器に移される。粉だらけにした手で撫でられながらその重みのままにののーんと伸びてゆく。その伸ばされてゆく餅に「恍惚」を見出している。擬人化というよりもむしろ餅と同化しているかのような。「大き手」はごつごつとした男の手と読んで餅の質感との対比を楽しみたい。

余談ですが「裸詣り」や「裸押し」という言葉を畳み掛ける「西大寺会陽」連作15句が収録されているのも『幻山水』。正直、西大寺会陽という祭りを知らないと特に面白くはないと思うのですが、祭りの歴史の中でここまで大喜びして筆を走らせたひとはいなかったんじゃないかという興奮ぶりが伝わるかと思います。

※以上、引用句はすべて『能村登四郎全句集』(二〇一〇年九月/ふらんす堂)より

3. 『能村登四郎読本』で散文を読むなら「欧州紀行」か「雁渡し」

『能村登四郎読本』には俳句だけではなく随筆や紀行文が入っています。
「欧州紀行」シリーズは能村登四郎が教育事情の視察のために団体で欧州10カ国を巡った際の思い出が書かれています。「おう、視察言いながらなんで闘牛みとんじゃワレ?」と詰め寄りたくなったりしますが(いやわかるよ、視察にも休日はあるよね、文化に触れるのも大事だよね)当時の日本人てこうだったんだ、というのが随所にうかがえてなかなかおもしろい。アテネ国立考古学博物館のポセイドン像をめっちゃほめてるところも良い。としろう’s ベストギリシャ彫刻はポセイドンです。

随筆なら「雁渡し」。時間がないひとは騙されたと思って「雁渡し」だけでも読んで。
ちょっとだけ引用します。

今でも時々思い出すふしぎな思いがある。それは少年の日にふと抱いた初恋に似た思いで、とうに消えてよい筈のものが三十年近い歳月を縷々と消えず生きつづいた。
その人は中学上級の時、一年だけ受持になったKという国語教師であった。

能村登四郎は中学校の恩師K先生に憧れて自らも教師になりました。
文句なしの名随筆ですが、手放しにキュンとする、といってしまっていいのかわからない。今よりもずっと難しい時代だったろう。注意深く言葉を選んで書かれているようにも感じる。
個人的には、能村登四郎本人がかつて男性に恋のような気持ちを持ったことと俳句作品が男性美に溢れていることはできるだけ分けて考えるよう心がけています。
(と言いながら一連の流れの中で紹介してごめん……)