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橋本直『符籙』を(やくざ映画として)読む

Photo by Frank Lloyd de la Cruz on Unsplash

橋本直さんの句集『符籙』をやくざ映画として読むと非常に胸熱なんです。
いや、以前瀬戸正洋さんの俳句をやくざ映画として読んだりしたけど、あたしだってなんでもかんでもやくざ映画にしてるわけじゃないんですよ。やくざ映画として読んで楽しいかどうか、その句集が持ってるポテンシャル次第だから。
『符籙』は濃い。やくざ成分が濃い。カルピス原液を感じる(ちなみに「仁義なき戦い」シリーズにはカルピスを飲むシーンが登場します)。

冬の日の寺に修羅場を見てゐたり

いきなり「仁義なき戦い」一作目のエンディング「弾はまだ残っとるがよ」じゃないですか! 寺で盛大に行なわれている葬儀。祭壇へ発砲する広能昌三。あるいは男女関係の修羅場かもしれないけれど、寺でそれが行なわれているシチュエーションなら当事者は50代60代ということも想像に難くない。軽い言い争いで済みそうな気がしない。「修羅場」の語源は仏教用語であり、その点では「つきすぎ(=言葉と言葉の連想関係が近すぎる)」とも言えるし、そこがまたちょっとしたおかしみにもなっている。

ふだらくのあかりへあめりかしろひとり

「夜行性ヒトリ! 夜行性ヒトリ!」と思わず歌ってしまった(クロマニヨンズ「夜行性ヒトリ」参照のこと)。誘蛾灯に向かって突き進むアメリカシロヒトリ。その姿はまるでそれが本能であるかのように死に向かって突き進む極道者を思わせる。

ネクタイの柄槍と盾熱帯魚

槍と盾柄のネクタイからすぐにブランドを思いつかないのだが、これはあれでしょ、槍とか盾とかゴールド系で背景色がエメラルドグリーンとかバーガンディとかでコントラストが激しいやつでしょ。そしてそのネクタイの人の背景に巨大水槽。行き交う極彩色の熱帯魚。座るだけで5万くらい吹っ飛んでいくお店ではないか。カタギの人間はなかなか足を踏み入れられない。

蚊を叩き下手な芝居を打つておく

たぶん、蚊を叩くところから芝居だ。何かを問い詰められて派手に蚊を叩いたふりをしたりして勢いで誤魔化す。たとえば「なんの用事で神戸へ行ったんなら?」と聞かれたとして、バッチーンと蚊を叩く振りをして「蚊がおる! 蚊に食われてしもうたわい! わしゃあ帰らしてもらいますけえ!」と大げさに騒いで退散する。芝居は下手でもかまわない。決して答えないこと、非を認めないこと、言質を取られないことがすべてだ。

美しき味方の汗をふいてやる

やくざ映画目線で見ていると「美しき」にも「味方」にも含みがあるような気がする。汗を拭いたりしてやって手なずけて利用していずれ見放すんでしょう!? ひどい!!

永劫の迷子のための生麦酒

これはねえ、もうやくざというものは「永劫の迷子」なんですよ、と。そうやって酒場でちょっと甘えたそぶりを見せるのも悪い男のすることですよ。

始まれば止める術なき祭かな

抗争だ。復讐が復讐を呼び、血で血を洗う抗争が繰り広げられる。「仁義なき戦い」「BROTHER」「アウトレイジ」も。

良きシャツを着て男等の花火かな

良きシャツ。派手な開襟シャツ。打ち上げ花火を見ていてもいいけど、ここはやはり手花火が切なくていいんじゃないでしょうか。砂浜。波の音。いい大人が野太い声でわいわい騒ぎながら線香花火をやってるわけ。男たちが時間を持て余して遊ぶ様子ってすごく北野武じゃないですか。ああ久石譲がピアノ弾いてる……。

人飛ぶにふさはしき風秋に入る

「飛ぶ」は「あいつセブ島に高飛びしたらしいぜ」っていう方の「飛ぶ」です。

鶏頭花笑つて鼻血吹き出す児

これは回想シーン。腕白な少年時代。

寝転んで日向で殺す秋の蟻

日陰じゃなくて白日のもとに、手慰みのように蟻を潰すんですよ。蟻を潰しながら潰される蟻に自分の姿を見ているんですよ。追っ手はそこまで迫ってきてる。ここで突然マイフェイバリットやくざを発表します。「アウトレイジ」一作目から水野(椎名桔平)です。そのダサいタンクトップの背中が好き!

新宿花園熊手組合新酒酌む

「新宿花園熊手組合」実際にそういう組合があるんだろうけど、字面がいかつい。土地柄裏社会との付き合いもあろうかと思う。※妄想です

銃声で終はる映画や檸檬切る

「毒戦 BELIEVER」じゃないかー!って思ったけどむしろ「ソナチネ」か。

いくつかの言語の咳の響きけり

韓国系マフィアと中国系マフィアと日本のやくざが入り乱れてる冬の新宿ですね、わかります。

幾らでもバナナの積めるオートバイ

バナナもいっぱい積めるし意外にいろんなものが積める。

市場血なまぐさしわが裸足もまた

東南アジアまで逃げてきた。血なまぐさい市場を歩いた自分の裸足の血なまぐささ、それは単なる現実に過ぎない。これは悪夢ではない。人間の血ではない。ただの魚と獣の臭いだ。罪の具現化ではない。そう言い聞かせても血のぬめりが足首を越え膝を越え全身を冒してゆくように思えてならない。(こういう海外詠が多くて、高飛びしたんだなって感じさせてくれるところもやくざ俳句的に最高❤︎)

八月の夢の男はよく沈む

足を縛り手を縛りセメント詰めにして海へ沈める。魚の群れの間を沈んで深海へと向かってゆく姿がいつまでも見えるのはこれが夢だからだ。本当は見えないはずの男の顔が見える。気持ちよさそうに笑っているように見える。男の顔、それは俺の顔だ。水に沈んでいくのは俺自身だ。

蜻蛉のなんの地獄をみてきた眼

トンボの複眼に「なんの地獄をみてきた」と問いかける。蜻蛉は首をかしげて飛んでいってしまう。ああそうだ。地獄? そんなもん知らねえな、という顔をしてサングラスの下で泣くのが極道だ。

薬指小指についてくる晩夏

自分の手を見つめる。昔の極道なら何本指が飛んでいたかわからない。詰めずに済んだ小指を曲げてみる。

梅雨寒へ暗い仕事を棄ててくる

何かを棄ててくること自体が仕事だったのではないか。拳銃とか、人とか。

悪党に生まれて死んで雛あそび

「雛あそび」がいい。一般的に女の子の遊びとされるようなものを持ってくるところがいい。極道者の一生をそんなふうに表せるなんて。極道いうてもよ、他愛のないごっこ遊びよ、と。場末のスナックのママのように薄い水割りを作りながらこう言ってあげたい。「あんた、そんなこと言わんで。生まれたときから悪党じゃった子なんておらんのよ。まあ飲みんさいや」と。

どの靴も蝶踏んでくる新宿駅

夥しい数の人間が行き交う新宿駅。男の眼には踏まれる蝶が見えている。極道者だけではない。堅気もみな何かを踏みにじってそれに気づかず生きているものだ。

狂はぬやう冷たい時計嵌めておく

金属製の冷たくて重い時計。ギラリと輝く、それなりの値段のする時計だ。

はあ。すばらしいですね。やくざ俳句の世界。

橋本直さんのやくざ俳句がかっこよくて大いにじたばたしました、という話については気が済んだのですが、ついでなのでもう少し。

上で示したような、こういう男臭い、いかにも極道! という句が並ぶなかに、従来のマチズモからずれたような句が混じってくるところがまた面白いんですよ。

君目覚めるまで冬林檎煮てをりぬ

北原白秋の「君かへす朝の舗石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ」が踏まえられているんじゃないかと思うんですが、相手を雪の中を帰して自分は室内でぬるいポエム吐いてるんじゃなくて相手が目覚めるまで朝食のジャムを作りながら待っててくれる彼氏……! スパダリか!くそ! 好きだ!

江戸城の蜜吸ひにゆく黒揚羽

妖しい美少年が大奥に忍び込もうとしてるみたいでドキドキしませんか……。

生殖の済んで蟷螂身構へる

身構えているのは、喰い殺される側だろう。この「死にたくない」と「死んでもいい」が同時に成立しているようなオスの姿が新鮮に思える。

生牡蠣をまの口で待つ人妻よ

一見非常にわかりやすい昭和的エロスだが「ま」音連発という言葉遊び的要素でもって知的に構築されている。自撮り熟女こと写真家のマキエマキ氏の世界に近いかもしれない。ユーモアを込めて再現された過去のエロス。

蝶の腹やはらかやはらか中年よ

エロスという点で言うならこちらの方が自分にとっては生々しい。蝶の腹の柔らかさ、しかしそれは指先にすこし力を入れるだけで潰してしまえるという危うさ。蝶に触れるという行為は少年時代をも連想させる。また柔らかい腹は完熟中年ボディの柔らかさでもある。少年時代と中年の現在と、潰されそうな蝶と人間の肉体もまた脆いということ、サディズムとマゾヒズム、それらがすべて折重なり「やはらかやはらか」とフェザータッチで触れられている。

ところで阪西敦子氏は栞文において『符籙』の句を「知識や教養をベースとした句」(例:日脚伸ぶ改訂版に絶滅種)と対するように現れる「ワイルド系」のハードボイルドかつスマートな句(例:寝転んで日向で殺す秋の蟻)、そのスマートな一面を覆い隠してきた「ゴシップ」的な句(例:冬の日の寺に修羅場を見てゐたり)に分類して紹介しているが、「知識・教養」「ワイルドでスマート」「ゴシップ」これらはまるっとまとめて「スパダリでインテリヤクザ」ということでいいですよね!!(まとめなくていい。)