半分妄想トルコ日記 俺は乾留液(カトラン)

シートの下に作られた灼熱の棺で俺はほとんど死んでいた。もうちょっとましな移送方法はなかったのか。もうちょっとましな細工ができなかったのか。それこそ身体中の血が乾留液(コールタール)のようにどろどろに固まってしまいそうだ。
ペットボトルの水は最初の一時間で飲みきってしまった。というか、うまく飲めなくて半分くらいこぼした。
一縷の望みをかけてシートを小突いた。一定のリズムで。モールス信号で “SU”。水。

「あれ何の音? うしろ何か聞こえる」
「整備不良かもしれませんね。しばらく様子をみましょう」

意識が遠のきかけた頃、嗄れた年寄りの声がした。誰か拾ったのか。蝶と年寄りが早口のトルコ語で世間話をして、突然水が一本投げ込まれた。車が止まって男が「じゃあ行くよ! 世話になったね! お嬢さんお元気で」と賑やかに言うのに紛れてキャップを開けた。こんどはこぼさないように。が、車が発進した瞬間に少しむせてしまった。

「また音!」
「妙ですね」
「トルコ、幽霊いる? イスラム教たましいどこ行く?」
「信仰について話すと長くなりますよ。日本はどうですか?」
「日本は幽霊たくさんいる! サダコ知ってる?」

日本人か。声が甲高いのはアジア系だろうとは思ったが。思うに助手席の楽しそうな女は移送作戦について知らされておらず、カモフラージュのために乗せられているのだ。呑気な顔をした観光客が乗っていれば警戒されることはないから。
しかし、それは必要な手間なのか。俺はそんなに重要人物だったろうか。いや、俺の持っている情報がいつの間にやら重要度を増したのかもしれない。
俺は単なる協力者だ。自分のしていることにどんな意味があるのかもわからず、物を運び、情報をかき集めてその対価を得てきた。あの蝶と呼ばれる諜報員だって似たようなものだろう。ひとつひとつの任務の内容は聞かされても、それが組織にとってあるいは国家においてどういう意味を持つのか把握することは難しい。

「フレディ! あれ何? 車とめる、警察かな?」
「よくあることです。君はなにも聞かれませんよ」

検問か。

「わたし心配しない」
「ええ、心配ありません。単なるセキュリティチェックです。大丈夫」

わざと声を大きくして俺に言ったようだ。気をつけろ、ということだろう。
車は速度を落としてやがて止まった。蝶が何か話しているようだ。

運転席側のドアが開いて、閉まる。次にトランクの開く音。
「これは女性の荷物?」「このバックパック以外は彼女のものです。もし彼女の荷物を開けるなら女性の担当者を」「いや、必要ない」バン、と衝撃が響いてトランクが閉じられた。

その後は緊張が解けて眠ってしまったのか本当に死にかけていたのか。蝶に頬を叩かれて気がつくと辺りは既に夜で、と思ったら薄暗いのは地下の駐車場にいたからだったが、時計を見ても実際に夜だ。自分の汗が目にしみて痛い。
蝶の手を借りて車を降りた。彼が力を込めるとき、細い腕にかすかに筋肉の線が浮き上がった。肘のあたりに手術痕らしきものが見える。俺はこの男の過去を聞いてみたい。

礼を言おうとしたら蝶は俺の手首を掴んだ。
ああ、そう来たか。
無事に逃がしてやるから感謝の気持ちは具体的に行動で示せよってことね。
兵役のある国では相手に不自由することがない。ここでもそうだ。
四角四面のこの男がそんなことを求めてくるとは思いもよらなかったが、俺の身体に触れてその気になったのかもしれない。
俺は汗でびしょ濡れの、ざくろのように赤い唇の、日に焼けた金髪の29歳。
来いよ。食いついてこい。張り裂けそうになるまで焦らしてやる。
薄闇の中、若草色の瞳を見つめた。

「どうしたんですか」
「は?」

蝶は俺の手に鍵を握らせた。

「部屋は4階です。階段を使うこと。明日は午前7時ちょうどにここへ来てください。空港に行って、そこから先は運転手が代わります」
「明日も俺は特別席か?」
「特別席? ええ。今日と同じです。無事に帰りたいならね」