福間健二、『岡山の娘』について語る 6

追撮まで
 
よく言われることだけど、映画の監督は、弁当のときに隣に座ってくれる人がいなかったりする。そのくらい孤立する。今回もぼくは孤立したでしょうが、キャストもスタッフもやさしかったですね。みんな、すれていないから。そのことをすごく感謝しています。
最初は、ぼくがちょっと遠慮しすぎたのと、打ち合わせの時間がとれないために、コミュニケーションがうまく行ってないところがあった。でも、後半に行くにしたがい、ほんとうに変わりました。それぞれが持ち味を発揮してきて、自分のやり方を見つけていた。こっちがワンテイクごとに気合いを入れている、その気合いに対して、動きが具体的に返ってくるようになった。いける、と思いました。
8月30日のクランクアップ。打ち上げはものすごく盛り上がりましたが、まだやめたくないし、ここまでをトレーニング期間だったことにして、ここから本番だったらどんなにすごいかと思った。お金と余裕のある現場ならそうやったっておかしくない。
 
東京に戻ってラッシュを見ていると、まだみんなと一緒に仕事をしている気がしました。これ、どうするんだと言いたくなる部分もありましたが、そういうところもふくめて、素材としての生命力を感じました。ちょうど詩人で映画作家でもある鈴木志郎康さんに会う機会があって、「ぼくはOKショットは使わない。NGを使う」という意味のことを言われ、それに励まされたように、ラッシュを全部、何度も何度も見ました。
とくに救われたなと思ったのは、B班撮影として学生スタッフだけで撮ってきてもらった風景。あれがないと岡山をちゃんと撮ってないってことになったかもしれない。
もちろん、悩むのは得意ですから、だめかなって思ったこともある。
もうひとつ、「ぼくはどうして映画を作るのか。それは怒っているからだ」と言えるようになっていない気がした。それで、みづきに「なんなんじゃ!」と怒ってもらおうと思いました。それが追撮に踏み切ったいちばんの理由です。
 
9月の末に追撮をやりました。西脇裕美さんに手紙を書き、それをスタッフにも読んでもらい、こういうことをやるんだというのをはっきりさせていたのですが、それでも間をおいたから心配でした。岡山に着いてまず感じたのは、もう夏の光がなくて、人々の服装も夏とは変わっていたこと。しかし、あきらめるわけにいかない。
まず、最初のカットの、西脇さんの演技。これが文句なしによくて、みんな、乗りました。大西カメラマンの言葉でいうと「怒涛の撮影」の二日間でしたが、撮ったもの、全部よかったです。これで映画の芯ができたと思いました。

26
4月
2008

福間健二、『岡山の娘』について語る 5

夏の光のなかで
 
クランクインは8月11日でしたが、大西さんと考えて、経験のないスタッフに早く仕事に慣れてほしかったのと、インしたあとに夜の撮影が少ない方がラクだという理由で、前撮というのかな、8月7日、8日、9日、夕方から数時間撮りました。花火を撮らないといけないってこともありました。そこから、途中、キャスト交代による構想の練り直しのための三日間の空きもあったけど、30日のクランクアップまで一気に走り抜けた。久々でちゃんと監督やれるかどうかの心配の前に、動きだして止まらなくなっていたって感じ。いまからあやまっても遅いけど、まわりはだいぶ迷惑したでしょう。
 
とにかく、夏。ものすごく暑かった。その上に、仕事の分担も指示の流れもどうなっているのかわからないような状態からスタートし、スケジュール通りにはやれない、いろんな問題がかさなって、文字通り「映画は戦場だ」という現場。ぼくは、映画となると気合いがふだんとちがってくるから平気なんだけど、みんな、よく一緒にやってくれたと思います。後半はとくに、毎日、興奮で眠れないせいもあって、夜明け前から起きて、信じられないくらい意欲が湧いてくるのを感じながら、その日やることを書いた「号外」を作りました。58歳の自分の体力にも、朝になるとみんなが来てくれるのにも、ありがたいなと思いました。
 
狙ったことをその通りにやれるかどうかではなく、今回の予算と条件、このスタッフとキャストで、やれることをひとつひとつ発見してゆく。アマチュアにはアマチュアならではのよさがある。たとえば、約束事に縛られない自由さがある。そういうものを最大限に活かすことが大事で、そこから出てくるものが、出会うべき現実、出会うべき岡山につながってくると思った。見込みちがいやミスも大して気にしない。結果を心配するよりも、撮れるだけ撮ってしまおうと、ひたすら貪欲になっていました。
 
夏の光、岡山の光。上から来るし、すごく変化するんですよね。
これに負けないように撮る。いろんな意味で、そういう勝負だったかな。ルックはゴダールの『決別』で行こうと話していたのは、そんなにうまく行かなかったかもしれないけど、風景の緑に光がふりそそいでいる。あとはどうやって影を作るか、闇を見つけるか。それが問題でした。大西カメラマンが疲労困憊しながらもがんばってくれたし、パナソニックAG-HVX200というカメラが、やっかいな反面、やっぱりいいんです。
大西さんとは、好きな映画がだいたい一致しているんで、やりやすかった。半分冗談なんだけど、今日は鈴木清順で行こうとか、ここはホウ・シャオシェンといった調子でやれた。でもね、「シナリオを読めばわかるだろう」という任せ方はしてませんよ(笑)。
そして、一週間で人が変わったみたいに成長する若いスタッフたち。
みんなで作ってゆく。
暑さに負けてなんかいられないと思いました。

26
4月
2008

福間健二、『岡山の娘』について語る 4

岡山という現実
 
どういう映画になるのか。ほんとうは、よくわかっていない。
そもそも最初からずっとそういうところがありました。
でも、作るっていうことは、一面ではいつもそういう冒険なんです。
ぼくの頭のなかにある「作品」をみんなに押し付けて、それが出来あがるようにやってくれっていうことでは、いけないんだと思ってきました。
肝に銘じていたのは、岡山の人と風景に出会ってゆくなかで生まれてくるものが大事だってこと。ワンカットずつ、発見してゆくように撮りたかった。
 
2006年12月の岡山映像祭で製作発表をすることになって、それに間に合うように、「あらすじ」と一緒に「岡山への挨拶」と「製作のためのメモ」を書きました。才能や経験とかではなく、また、主題やメッセージの積極性でもなく、自分の表現への信念、情熱、さらには映画への欲望っていうものを買ってもらおうと。
 
お金のかかっている普通の劇映画の真似をするつもりはなく、かといって、最後まで人間をあたたかい視点でとらえることをしない高級そうな芸術にも、うんざりしている。
前衛とか実験とかいうようなことは、形式としてそれだけを目的にするなら、簡単なんです。その表現が、普通に人が生きている現実の地平につながるかどうか。それが勝負。いままでになかった新しいものをつくる。でもひとりよがりな芸術をやるんじゃない、というところで、しぶとく粘ってやっていこう。そう思っていたわけです。
 
人間へのあたたかい視点が必要で、ただの前衛はだめで、ひとりよがりは許されないっていうのは、主に詩を書きながら考えてきたことだけど、それを、たとえば東京に対して岡山がもつ感じ方につなげていたかもしれません。
また、ぼくが岡山を好きだっていうことは、自分の信念に岡山の具体的な風景をあたえるということで、そこから岡山を舞台にした映画が始まる。強引な言い方に聞こえるかもしれないけど、そう思っていました。
 
現実に出会い、現実を見なおし、さらには新しい現実を生みだす場所として、岡山をつかまえようとした。ロケハン(撮影場所探し)をしながら、いちばん感じていたのは、そういうことです。そこに住んで慣れているのでもなく、旅行者として驚きながら通過するのでもない、5年間岡山にいたことがあっていろんなつながりをもってきた自分の目を信じたいと思いました。

26
4月
2008

福間健二、『岡山の娘』について語る 3

物語について
 
『岡山の娘』の脚本は、何回も書きなおしました。
物語をどう作るのか。これには悩むんです。
ひとりでやっているとわからなくなるんで、東京でも、岡山でも、いろんな人たちに相談し、意見を聞きました。
若い詩人でやはり映画も作っている今村秀也さんには、準備段階から仕上げの最後までつきあってもらった。みづきと信三がどこまでわかりあえるか。そこに微妙な距離を残すようにしたのは、彼に負うところが大きいかな。
 
最初は、みづきの母親奈津子が殺され、アケガタさんという女刑事が登場するという事件物だった。永瀬清子さんの詩「あけがたにくる人よ」からとったアケガタさんでした。
それから、ぼくは、ロバート・スティーヴンスンの短篇『宿なし女』というのが好きで、信三が昔それを戯曲にして上演したことがあるという設定にして、その話を、みづき、奈津子、照子の関係にからませようとしたんだけれど、だれにもあまりよくわかってもらえない感じだった。その段階では、なんと信三と照子のベッドシーンというのもありました。
一方で、外国から帰ってくる父親をはじめとして、構成要素が『急にたどりついてしまう』に似すぎているという批判も受けた。何度も言ってることだけど、これはこたえました。
 
いろいろとありましたが、七月半ばくらいには印刷台本までこぎつけました。
みづきと智子、みづきとさゆり、みづきと啓介、みづきと信三、それぞれの関係が順番に焦点を作ってゆくというもの。
岡山の娘たちのインタビューは、智子が雑誌編集者に頼まれた仕事でやっているというふうにして、ドキュメンタリー的な要素も、ぎりぎりのところで、劇映画の普通の語り方のなかに収まっていました。
 
八月、撮影開始後にそれを大きく変えなくてはならなくなった。キャスティングの交代をよぎなくされ、西脇裕美さんが智子役からみづき役に変わった。そればかりでなく、時間的にも追いつめられていました。
『急にたどりついてしまう』も撮りながら脚本は変わっていったのですが、今度はそれ以上の激震に出会ったわけで、後半は連日、その日の明け方に起きて用意した「号外」で撮っていきました。スタッフとキャストには申し訳なかったけれど、実は、これこそが自分のやりたかった撮り方だとも思えてきました。
でも、物語をどうしたいのか。この作品をどういうものにしたいのか。まだはっきりとはわかっていなかったんです。

20
4月
2008

福間健二、『岡山の娘』について語る 2

詩について
 
もうひとつ、ぼくのような年代の人間が、若い世代の表現、とくに若い詩人たちの言葉をどう受けとめたらいいかということがありました。
三角みづ紀さんの詩集『カナシヤル』を読んだところで、その詩にぼくがどう接近するかというモティーフが、父親が娘に会いに来るという筋にかさなって、みづきという名前のヒロインが生まれたんです。
ついでに言うと、小川みづきの「小川」は、墓のシーンを小川孝雄プロデューサーの家の墓で撮ることから決まりました。
 
三角みづ紀さんは、大学で映像を学び、自分でも映画を作っている。
詩をぼくの映画に使いたいと言うとすぐに乗ってくれました。
結局、映画に出てくる三角さんの詩は、「ひかりの先」という短い作品と、「あまのがわ」の一部だけになったけれど、オーディションとリハーサルの段階から、彼女の作品をいろんなかたちで使いました。
みづきの、そして『岡山の娘』の、影の部分。矛盾した言い方になるかもしれないけど、そこに三角みづ紀さんの言葉の「光」がさしこんでいる。そうなってくれてるといい。
 
いちばん最初にキャスティングを決めたバルカン役の東井浩太郎さんの詩も出したくて、「このスープは正確に狂っている」という作品を書き下ろしてもらった。
それから、ぼく自身は、去年、機会があるたびに『岡山の娘』につながるモティーフで作品を書いたんですが、そのなかから、みづきが母親奈津子の残した靴をはいて外に出るという「その靴をはいて」と、奈津子が書いた詩として「窓」を使いました。
 
あと、編集作業になってから入れることにしたんだけど、北川透さんとディラン・トマスと鈴木志郎康さんの詩句が、字幕で出てくる。ぼくが学生時代から熱中して読んできた詩人たちです。北川さんは、映画のなかにも登場し、中原中也の詩の一節を読み、作品の核のひとつとなる、とても大事なことを語ってくれています。
 
『急にたどりついてしまう』(1995)のときは、途中から詩を使うことになった。今回は、最初から、ミュージカル作品に歌と踊りがあるように、詩のある映画にしようと思った。映画と詩。なぜこの二つをやるのか。
『急にたどりついてしまう』を作ったあと、この質問に悩まされました。
いまは、悩みません。

19
4月
2008

福間健二、『岡山の娘』について語る 1

どんなふうに始まったのか?

岡山映画祭のスタッフの作った『映画の記憶』(大西一光監督、2005)が、2006年の夏、東京で上映されました。
それは、『岡山の映画』という本の著者である松田完一さんへのインタビューを作品にしたもので、松田さんが、映画を見てきた、つねに映画とともにあった人生というものを、魅力的に語っている。
そこから、ぼくは、やはり映画とともにここまでを生きてきた自分が勇気づけられるような、なにかを感じとりました。

その夏、松田さん自身も東京に来られた。その年の暮れには、松田さんが火事で亡くなられるという悲しい出来事がおこるのですが、そんなことになるとはだれも思いません。松田さんも楽しそうに参加された上映後の打ち上げのあと、一気に、岡山で映画を作ろうということになった。
小川孝雄プロデューサーとも話が少しくいちがうんですが、抽象的に言えば、ぼくは、岡山という土地から「やってみろ」と言われ、それに応えなければ自分がいままでやってきたことが台なしになるというような、思い込み状態になったんです。

考えてみると、岡山を舞台にした映画を作りたいというのは、ずっと前からあった。
いま住んでいる国立という東京の郊外の町を舞台にした前作『急にたどりついてしまう』を、1995年、神戸大震災とオウム事件の年に作ったその直後かな。それとも、もっと前からかもしれない。
ぼくは、1979年、30歳で岡山大学(当時の教養部)に赴任し、5年間岡山で暮らし、そのあいだに岡山の女性と結婚しました。そのあとも岡山をたびたび訪れ、岡山といい関係をもってきました。
岡山から受けとってきたものがある。また、「アイ・レフト・マイ・ハート・イン・サンフランシスコ」という歌のように、岡山に置いてきたなにかがある。
そういう自分の物語に重なるように、岡山を離れていた男(立花信三)が岡山に戻ってきて、まだ会っていなかった娘に出会うという筋が、すぐに浮かびました。
まるで、ずっと前からあたためてきたもののように。

14
4月
2008

予告篇のことなど

勤め先の大学の新年度もはじまって、なにかバタバタしています。
 
You Tube に予告篇 [1]の映像を入れたのですが、
どうも技術的にうまくいかなくて、
16対9であるべき画像が横方法に圧縮されたものになっています。
とくに出演者のみなさんには(顔、姿が、細くなっていて)
申し訳ないですが、しばらくは、これで見てもらうことにします。
時間をおいて、別な方法を考えるかもしれません。
 
クレジットのエンドロールを直した上映ヴァージョンを、
5月9日、10日に作ることにしました。
音のバランスほか、若干の手直しもするつもりです。
これが、岡山での上映までの、最後のチャンスなので、どんなことでも
気になっていることがあったら言ってください。
 
あと、だれか言ってくれるかなと思っていたことですが、
チラシ、真ん中で折ると、ちょうど西脇さんの目がつぶれます。
しっかりした紙を使ったので、なおさらそうなってしまいます。
折る必要のあるときは、画面の分割線にそって、
三つに折ってもらえたら、と思います。
 
このブログに連載する
「福間健二、『岡山の娘』について語る」
という原稿を用意しています。
そのなかに入れるかどうかは別として、
そしてちゃんと答えられるかどうか、わかりませんが、
ぼくに質問したいこと、ありましたら、コメントで言ってください。
よろしく。
 
監督 福間健二 

[1] http://d-mc.ne.jp/blog/musume/?page_id=32

12
4月
2008

完成しました!

報告が遅くなりましたが、4月1日、ついに『岡山の娘』の完成 ヴァージョンに、こぎつけました。
そのあと、虚脱状態です。
完成ヴァージョンは、3月15日に上映したものよりも、20秒くらい短くなりました。
どうも、まだ終わったという気がしていないのですが、ともかく、完成です。
スタッフ、キャスト、協力者のみなさんのおかげで、ここまで来ることができました。
みなさん、ありがとう。
 
監督 福間健二 

06
4月
2008