どんなふうに始まったのか?
岡山映画祭のスタッフの作った『映画の記憶』(大西一光監督、2005)が、2006年の夏、東京で上映されました。
それは、『岡山の映画』という本の著者である松田完一さんへのインタビューを作品にしたもので、松田さんが、映画を見てきた、つねに映画とともにあった人生というものを、魅力的に語っている。
そこから、ぼくは、やはり映画とともにここまでを生きてきた自分が勇気づけられるような、なにかを感じとりました。
その夏、松田さん自身も東京に来られた。その年の暮れには、松田さんが火事で亡くなられるという悲しい出来事がおこるのですが、そんなことになるとはだれも思いません。松田さんも楽しそうに参加された上映後の打ち上げのあと、一気に、岡山で映画を作ろうということになった。
小川孝雄プロデューサーとも話が少しくいちがうんですが、抽象的に言えば、ぼくは、岡山という土地から「やってみろ」と言われ、それに応えなければ自分がいままでやってきたことが台なしになるというような、思い込み状態になったんです。
考えてみると、岡山を舞台にした映画を作りたいというのは、ずっと前からあった。
いま住んでいる国立という東京の郊外の町を舞台にした前作『急にたどりついてしまう』を、1995年、神戸大震災とオウム事件の年に作ったその直後かな。それとも、もっと前からかもしれない。
ぼくは、1979年、30歳で岡山大学(当時の教養部)に赴任し、5年間岡山で暮らし、そのあいだに岡山の女性と結婚しました。そのあとも岡山をたびたび訪れ、岡山といい関係をもってきました。
岡山から受けとってきたものがある。また、「アイ・レフト・マイ・ハート・イン・サンフランシスコ」という歌のように、岡山に置いてきたなにかがある。
そういう自分の物語に重なるように、岡山を離れていた男(立花信三)が岡山に戻ってきて、まだ会っていなかった娘に出会うという筋が、すぐに浮かびました。
まるで、ずっと前からあたためてきたもののように。