あらゆる娘たちにはそれまでの日々があり、日常があり経験があり、傷跡や噛み跡がある。それぞれ背負ってきたものはその娘しか背負えず、娘たちは「主人公」となり、「わたしだけはみんなと違う」と叫び続けていくとしても、ふと視界が拓けるときは必ず訪れる。
あまりにも果てしない世界と対峙するは自分自身の存在と対峙すること、そしてその自分は世界よりも果てしない世界だということ。
そんなそれぞれの世界が擦れ合ってひとつの世界へ収束している。
自分と向き合うとき、ようやく夜は明け、ふいに世界に少しだけ手が届く朝が訪れる。
岡山の娘たちは、この瞬間もそんな朝を耳元に感じている。
『岡山の娘』によせて 三角みづ紀
10月
2008
鈴木志郎康さんの感想
映画のなかで「わたしはわたしてないからわたしだ」という一行を使わせてもらった詩人の鈴木志郎康さんに、『岡山の娘』のDVDを送って見てもらいました。
「なにぬねの?」というサイトに鈴木さんが書かれた文章を転載します。
福間健二さんの新作映画『岡山の娘』のDVDを見る。
鈴木志郎康
8日の夕方、宅急便で福間健二監督作品『岡山の娘』のDVDが送られてきた。昨年からいろいろと話しを聞いていたので、早速見てみた。
『岡山の娘』は、娘の顔のスチル写真の後、スペイン語で岡山市の紹介があって、岡山に自分の娘がいるという字幕が出て始まる。いきなりのスペイン語には、ちょっとびっくりするが、映画はその「娘」を主人公として展開する。現代詩がふんだんに使われている。母親を亡くしたばかりのところに、初めて父親に会うことのなるという岡山に住む若い「娘」が、大学を退学してアルバイトしながら母親の借財を整理して、母親を理解するようになり、自分の人生について煩悶しつつ、徐々に父親を受け入れて行く、その一夏を描いた作品だが、主人公の心情を表すにに、三角みづ紀さんの詩など、沢山の詩の言葉が使われていて、その言葉のイメージと映像のイメージが交錯して、岡山の街の風景や人との出会いに「娘」の心が磨かれて、どんどん美しくなっていく姿が描かれるという珍しい映画になっている。
映画の中で読まれたり語られたりする三角みづ紀さんや福間健二さんの詩は、自意識を日常の事物などを比喩にして語るところがあるが、それが現実の情景を撮った映像と重なると、言葉の飛躍が鮮明になって面白いのだ。主人公の名前の「みづき」は三角みづ紀さんの名前から生まれたということだし、岡山で朗読会をやった北川透さんが、その飲み会で主人公から、表現をする者にとって大切なことは何かと質問されて、心が弱いことが大切だと答えるあたりも、主人公の境遇と重なって、詩や詩人の存在にリアルな感じが出 ている。もっとも、そんなふうに感じるのは、わたしが彼らを詩人として知っているからかも知れない。それにしても、福間さんが詩を沢山使ったというのは、日本の映画には余り例がないのではないか。
娘のみづきが母親を理解しようと、髪型を変え、残していった靴や衣服を着て、母親の人柄を友人に聞いてイメージを求めるが、そこで母親が若い頃にやっていた同人誌や詩が出て来て、母親の世代の表現のあり方がちらっと現れる。その辺りはもう少し描いて欲しかった。というのは、父親はトロッキーを文学として読んだ男で、20年に渡ってスペインなどで暮らして、ふらっと戻ってきた男という風に紹介されているので興味をそそられたのだった。
6月
2008