──人間て、生きてるだけで、もうそれだけで
たいしたもんだって思うんですよね。
福間健二「岡山の娘 3・15版」試写会でのトークより(文責 中原)
スクリーン奥からこちらに向かって歩いてくる主人公を捉えたすばらしいショット(撮影 小西泰正)で始まり、移動撮影による揺れる夜の国立の街の映像に、いきなり起きてしまう現実を当座しのぎながらさらに生きる場所を手探りで模索する若者達の生々しい内面を凝縮させた前作「急にたどりついてしまう」より十三年、福間健二監督の新作「岡山の娘」(撮影 大西一光)がいよいよ完成へ秒読みのところまでこぎ着けました。
福間さんによれば、この映画の根っ子には自身の若き日の体験があるとのことです。東京から岡山の地へ大学の講師として赴任した福間さんには思い屈する日々が続き、教師を辞めたいとまで思いつめます。そんな福間さんを救ったのは、岡山の地で詩を書くこと・詩を書く仲間との交流でした。福間さんが、岡山の空の下、岡山の地面の上で、岡山の川面をわたる風にふかれて、岡山の新人の俳優・スタッフとこれまでにない新しい映画を作りたいと願った理由はここにあります。
「急にたどりついてしまう」の制作は1995年でしたが、その6年前1989年にベルリンの壁が崩壊し、もはや “大きな物語“を語ることは困難となりました。1992年に始まる経済不況はその後長く続き、貧富の格差をひろげ、若年労働者の失業をもたらし、街の八百屋を一掃し、グローバリズムいう名の均質化を推し進めました。2001年の米国同時多発テロは、自明なものなどどこにもないとの思いを懐かせるものでした。
生きることは大変なことです。
一体、いま、いかなる物語が可能なのでしょうか?
世界は、いま、どのような手触りを持ち、いかに捉えうるのでしょうか?
岡山の地で詩を書き・読むことによって再生できたとの思いを核に持つ福間さんの新作「岡山の娘」は、登場人物に本物の感情が流れており、いま、世界を映画で捉えようとする途方もない困難に正面から挑んでいます。
一人でも多くの方々にこの映画「岡山の娘」をご覧いただきたいと、心より念じます。
「岡山の娘」上映実行委員長
中原省五