発表☆第1回ビバ!ユキオ俳句賞(6/7)


心配部門の受賞作を発表します。
「大丈夫?」
「背中とんとんしようか?」
「専門家に相談したほうがいいのでは……」

と、登場人物※1が心配になった句を選びました。

めっちゃ心配

【心配部門】

★シェルター賞
麦酒ケース買ふDV夫のため   市川綿帽子

「麦酒ケース」は絶妙な道具立てだ。
ケース単位でビールを買うというよりは、文字通りビールケースそのものを買ったように思える。ケース単位で買う場合には「1箱買う」「2ケース買う」「ビールをケースで買う」というような表現が一般的だから。
ビールケースの句と言えば

炎天のビールケースにバット挿す  榮猿丸『点滅』

を思いつくが、この夫はそういう健康的な暑さ・熱さからはほど遠い。
「麦酒」と「DV」が一句の中に共存していることで、夫はアルコール依存症なのではないかという連想が働く。
「DV夫のため」は「夫が私を殴るためのビールケースを私が買う」という意味かもしれないし「夫の暴力に対抗するために防具あるいは武器としてビールケースを買う」のかもしれない。あるいは単に(妻はそんなもの必要ないと思っているのに)どうしてもビールケースが欲しいと夫が言うので買わざるを得ないのかもしれない。
全体としては字余りになる破調の句なのだが、575のリズムに当てはめて読もうとしたとき、
麦酒ケース/買ふ◯DV/夫のため
というように1音足りない中七部分の◯のところに息を飲むような欠落感が生じる。
どうか依存を断ち切って無事に逃げてください、と祈るような気持ちになってしまう。

★厚生労働賞
白菜をブラック企業の前に置き帰る   八鍬爽風

梶井基次郎「檸檬」の主人公は、檸檬を丸善に置いて去っていった。
このひとは白菜をブラック企業の社屋の前に置いていったようである。玄関の自動ドアの前にぽつんと置かれた白い塊。そこを行き交う社員たち。
ブラック企業の元社員が、抗議のつもりで行ったことなのではないかと思うけれど、ブラック企業はブラックだから白菜が置かれてたって誰も疑問に思わない。痛くも痒くもない。やがて清掃業者が回ってきて片付けていくだけ。こんなのなんの意味もない。この冬白菜高かったのに。大事な白菜を、こんな使い方して。もったいない。しかしそんな意味のない、もったいないことをせずにはいられないほどこのひとは病んでいたのだろう。
どうせなら眠っている経営者の布団の中に愛馬の生首を入れておくとか、わかりやすい復讐をしてもよかったのではないか。そういえば白菜は人間の頭くらいの大きさだ。そういう意味では人参や大根に比べるとどこか不吉な雰囲気が漂う。
ところで「白菜をブラック企業の前に置く」としてしまえば下五が5音におさまる。最後の「帰る」3音が定型からはみ出しているのだ。このはみ出した3音が妙に生真面目じゃないですか。「帰る」があるからこそ白菜はそこに置いたまま人物が立ち去ったことがはっきりするし、それが「檸檬」の連想にも繋がるのだ。

★花冷え賞
花花花花トイレはどこだ花   吉田どんぐり

お花見の景と読みました。
川沿いに植えられた桜並木。土手に敷かれたレジャーシート。企業名のぼんぼり。屋台。焼肉の煙。ビールサーバーを背負ってナンパするサラリーマン。
お花見は下腹部に負担のかかりやすいイベントだと思います。まだまだ肌寒いし、冷たいビールやチューハイを飲むし。突然襲いかかるはげしい尿意。悪くすると腹痛とのコンボ。しかし、慣れない土地の場合、トイレがどこにあるかすぐにはわからない。かくしてひとはトイレを探して花見会場をさまようのであります。百メートル歩いた先にトイレがあればいいが、もしこれが間違っていたらどうなるのか。真剣な面持ちで、そのひとは歩く。桜吹雪にまみれながら。

★経理課困惑賞
星冴ゆる鞭は経費で落ちますか   田島ハル

高額な物品を購入する際は事前にご相談いただきたいと申し上げていたはずなんですが、困りましたね。もうご購入済みなんですよね。「鞭」? 鞭を買ったんですか……。業務に必要なんですよね。ええ、まあそうですよね。ちなみに今日はその領収書お持ちですか。但し書きは。は?「お仕置き用品として」?

たぶん、経理のひとは鞭を経費で落とすのは不可能という結論を出すだろう。鞭といえば本革で手作り。それなりの出費になるはず。しかしこの句の語り手からしてみたら、それも全部込みでプレイなのかもしれない。迷惑な話である。
「星冴ゆる」である。夜なのだろう。残業中だろうか。残業中に人気のないオフィスで鞭の領収書を見せられたら、怖い。

★ショコラ賞
ココア溶く明日も明後日も休む   嫉妬林檎

ダジャレをスルーされそうなので言っておくと「ショコラショー(ホットチョコレート)」と「賞」をかけました。ショコラショーとココアは別物という説もあるようですが目をつぶってほしい。
さて、漫画など創作物の中では温かいココアは傷ついた心を癒すものとして登場するという指摘があります。(『ゴロツキはいつも食卓を襲う フード理論とステレオタイプフード50』福田里香 いま手元になくて正確な引用ができなくてごめんなさい! 面白いのでぜひ読んで!)
この句は連休でココアを飲みながら日頃の心身の疲れを癒している句なのだろうか。いや、もうちょっと引っ掛かりがある。
まず、ココアを飲む前の段階が描かれている。「ココア飲む」や「ココア吹く」ではなく、粉末のココアを熱湯でどろどろに溶いている。ダマにならないように少量の熱湯を加えて溶くその初期の状態は溶岩のようにも血溜まりのようにも見える。
それから、「明日も明後日も休み」ではなく「明日も明後日も休む」と本人の意志が入っている。どうやらあらかじめ決められていた休日ではなく、「もう休む! うちは休むけんね!」と決めて休んでいるようなのだ。
ココアはもちろん癒されるものだけど、癒さなければいけないのは疲れているからだ。ココアの熱いどろどろには憤りや不満が表れている。単純に「癒し」としてのココアではなく、その前提となる痛みを描いた点を評価したい。

<類想について>
嫉妬林檎さんの上記の句について、類想句があったとの報告を受けました。

ホットココア明日も明後日も休み   香野さとみ

嫉妬林檎さん、香野さとみさん、どちらの句が先に発表されているかの調査は行っておりません。
ここまで似てしまった例は少ないかもしれませんが「ココア」が「心を癒す」「ほっとする」というイメージと結びつきやすい以上、「休日」と取り合わせられた句は他にも見つかるかもしれません。

今回、作品の審査にあたり類想句のチェックについては一切行っていなかったことを反省し、今後は類想感のある句に関しては慎重に検討したいと思います。
ただ、書籍の確認や、データベース検索ができる範囲には限界があります。
作る側の問題としても完全に類想句を避けることはできません。俳句というとても短い詩型には常に付いて回る問題です。
なおビバ!ユキオ俳句賞の趣旨から言って類想句があったために受賞を取り消すというのはナンセンスですので、ご報告のみにとどめておきます。
(4月18日追記)

★サスペンス賞
枯野来て「もしも」を多用する男   香野さとみ

もしも旦那さんが転勤決まったらどうする?」
もしもあのとき俺が好きだって言ったら俺とつきあってた?」
「俺たちやっと二人きりになれたね」
「え? 帰りたいって? もしもその鞄の中に携帯も財布も入ってなかったらどうする?」

人気のない枯野に一緒に来てしまったことを全力で後悔するシチュエーションです。火曜サスペンス劇場的な展開になってしまうのか。
後のことは何も考えず金的をくらわして走って逃げてください。

★パンデミック賞
恋愛セミナーまずはマスクを外しましょ   シシオ澤ガイ

このセミナーは、あやしい。
風邪をうつしたくないから、あるいはうつされたくないからマスクをしているのである。顔を隠したくてマスクをしているわけではない。
なぜなら、ここは俳句の国でマスクは冬の季語で本来冬場の風邪の感染を防ぐもの、あるいは防寒のために身につけるものだからだ。室内ならばマスクをする理由はひとつ。感染予防だ。
マスクを外すように言ったのはセミナー講師やスタッフだろう。

「まずはマスクを外してあなたの素顔を見せてくださいね〜」

セミナー参加者の間で風邪が蔓延したらどうするのか。インフルエンザに罹っているひとがいるかもしれないのに。そういうことは一切考慮せず、マスクを心の壁の比喩のように扱って主導権を握ろうとしているのだ。言っている内容に加えて語尾の軽さ、語呂の良さがあやしさに拍車をかけている。

マスク

★嚥下賞
春眠の口にねじ込むチョコレート   実駒

眠っているひとの口にチョコレートをねじ込む。反射的に飲み込んでしまい、喉に詰まったらどうしよう……と心配になりました。
いや、口を開けて寝ているひとの口の中に放り込んだのなら誤飲の危険性が高まるけど「ねじ込む」だから大丈夫なのかもしれない。唇は閉じているわけで、前歯で止まるような気もする。ちょっと溶けた状態で口からぽろっと落ちたら服が汚れそう。
春は馬鹿なことやしょうもないいたずらをしたくなる時期です。チョコレートをねじ込むなとは言わない。ねじ込んだままその場を離れてはいけない。ねじ込んだひとは責任を持ってチョコレートを回収していくべき。BL読みをおすすめしたい句です。

★心配ない賞
石鹸玉 日々見える私は 頭がおかしい   高橋あずさ

高橋さんは俳句に興味を持ち始めたばかりなのではないかと思います。
なぜそう思ったかというと上五・中七・下五の間に一字分のスペースを入れているから。一句だけではなく、応募作がすべてこの形式だったから。
俳句や短歌ではスペースを入れずに続けて書くのが一般的です。(もし、意図的にこのスタイルで書いているのならごめんなさい。その場合はあなたのトリックにわたしが完全に騙されているということなのでガッツポーズ!)
たぶん、筆で書いていたころはどこにスペースを入れるかなんて気にする必要がなかったわけで、スペースという概念は印刷機のせいでできちゃったのでしょう。印刷物やデジタルデバイスで作品を発表するわたしたちは、スペースを表現技法として使うことができる。入れる、入れないが選択できるわけです。
「すべての句の五七五それぞれの間にスペースを入れる」を自分のルールとして選択するのなら、それも面白いのかもしれない。それによってたとえば使える言葉は制約を受けて「スリジャヤワルダナプラコッテ春の雨」※2みたいな句は書けなくなります。このルールだと「句またがり」や「破調」の句が書きにくく、五七五の枠にきっちりおさまった作品になりがち。
で、本来だったらここまでで説明を終えて「まあ、次からはスペース入れずに続けて書けば?」と言ってしまうのですが、高橋さんの句が面白いのは、間にスペースを入れるルールを採用しながらも字余りの句になっているところ。

しゃぼんだま(5音)ひびみえるわたしは(9音)あたまがおかしい(8音)

リズムからしたら「自由律」と言っていいと思います。
つまり、自由律の音を記述する際に五七五の定型を強く意識させるようなスペースの入れ方をしている。そう考えると興味深い試みです。

生きていたら視界に石鹸玉がふわふわする時期もあるでしょう。だいじょうぶ、あなただけがおかしいわけではありません。あまり気になるようならお医者様に相談を。

※1 作者=俳句の作中主体(作中人物)と解釈する方も結構いらっしゃるようなのですが、わたしはそういうふうには読みません。他人の人生に土足で踏み込みたくないからです。たとえ作者自身から「わたしの人生の物語として読んでね」と差し出されたものだったとしても、そこにはクッションを挟みたい。

※2 いま適当につくった句なので品質についてはご了承ください。スリジャヤワルダナプラコッテはスリランカの首都。言葉の塊ごとに分けると「スリ・ジャヤワルダナプラ・コッテ」となるようです。