編集・仕上げについて
十月から本格的な編集に入りました。
どういうふうにまとめるか。ずっと迷っていました。思い切りがつかなくて、決め手不足のまま、2時間を越える長さのヴァージョンを作り、いったん休み、岡山映画祭で上映したショートヴァージョンにとりかかりました。これは、力づよさを出したかった。吉田孝之さんの音楽も少しずつ出来てきたので、試しに使ってみました。自分では相当いい感じにつながったと思ったけれど、まだどうとでもなるという状態。
訳がわからないとも、何をやりたいのかわからないとも言われましたね。ショートヴァージョンには出演者のほとんど全員が出てきますが、それぞれがぼくになにかを語りかけてくる。それに耳を傾けていました。つまり、無理に映画のかたちに押し込むのではなく、素材の方から自然に出てくるものを待つ感じで、年を越しました。
一月の下旬に編集作業を再開。
どういう映画にするのかという方向が見えてきました。
普通の劇映画の語り方で物語をたどってゆくのではなく、むしろその語り方が破綻するところに、ヒロインみづきと岡山の「いま」を生み出す。
でも、作品から物語を追い出しているわけではない。
むしろ、そこまでに切りすてなくてはならなかった物語が呼びよせられ、重なりあって、からみあってゆく。
そういうふうにしたいと思いました。
神様あるいは作者が作るひとつの決定的な物語があるのではなく、語る人それぞれによるいくつもの物語があるという地平へ、この作品が踏み込もうとしていることに、確信をもってきたのです。
編集は、実におもしろいんです。横浜の弟のところ(幻野映画事務所)で、四泊五日とか五泊六日の泊り込み作業を何度もくりかえしてやりましたが、そのあいだは映画のことだけ考えていればいいんで、ある意味では撮影のとき以上に集中できる。やっていると、現場を再現しているような気分になってくる。いつまでもやっていたいような感じです。
画像も音も、普通でいえばOKとは言えないものがだいぶあった。でも、すべて活かし方次第なんです。マックのファイナルカットという編集システムを使っていますが、これが便利すぎるくらいのしろもので、なんでも出来る。やりだしたらきりがない。
どこまで処理していいか、いじっていいか。
最後はそういう勝負になってきました。とにかく、みんなで力を合わせて生みだした画像と音が少しでもよく活きるように作業をつづけました。
福間健二、『岡山の娘』について語る 7
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