「弱い心」について
 
岡本文子さんは、どのくらい地を出してもらうかというところで、監督のぼくが迷って行ったり来たりした。撮影技術的にもむずかしい場面があって、テイクも多くなり、ほんとうにお疲れさまでした。映画に出ることが彼女にとって事件だったということが、画面に出ている。そこが、ぼくは好きです。器用じゃないけど、人間としての大きい感じがあって、照子ってこんなふうでよかったんだと、逆に教えられました。
 
断るまでもないでしょうが、基本的に、女性が強くてしっかりしていて、男性がなにか自信がないような感じというのが、ぼくはいいんです。オーディションのときからそれを言ってきて、蓋をあけてみるとちゃんとその通りになっていた。その点は、とりわけ文句なしです。
 
「弱い心、なんにでも傷つきやすい心」の大切さを語ってくれる詩人の北川透さんが出る、岡山駅西口の「未完成」での大朗読の場面は、六月に撮りました。カメラのテストを兼ねて撮影するという、いまから思えば失礼なことをやったのですが、あのときはハイヴィジョンで撮影してません。その夜は、東井浩太郎さんも、石原ユキオさんも、それからぼくと一緒に出た西脇さんも、いい朗読をしたのですが、使いにくい映像になった。でも、北川さんの話がすばらしいんで、そこだけはなんとしても入れたいと思いました。
 
編集しているうちに、北川さんの言う「弱い心」というのが、この映画の人物たちをつらぬいている大事なモティーフだと確信しました。みんな、「弱い心」をもって生きている。そのことが、たとえばかつての大島渚や今村昌平や増村保造たちの映画の世界とはちがう、いまの世界のリアリティーになっていたらいい。
 
とくに男性陣は、啓介、信三、バルカン、盛ちゃん、みんな、そうなんです。学校に行けない杉太も、もちろん、そうだしね。志村と三船は、黒澤明作品の志村喬と三船敏郎からわざと名前を借りたんだけれど、かれらも根底に「弱い心」をもっている。男性の出演者は、ここでひとりひとり詳しく語る余裕がなさそうですが、全員、キャスティングの狙いどおりに、そういう感じをうまく出してくれた。演出としては、(女優さんに対するのと比べたら手抜きと思われるくらいに)大したことはやってないのに、ちゃんと通じたものがあった。うれしかったです。
 
北川透さんとは、ぼくが詩を書きはじめてすぐに出会った。そこからずっと北川さんの仕事を追ってきたことが、ぼくを支えてきたと思います。そして、ここでまた、北川さんの言葉に救われた。最初に言ったように、ひとつには、三角みづ紀さんのような若い世代の詩にどう向かうかというところから、『岡山の娘』は始まった。その方法として、いまから思うと奇策としかいえないようなことを考えたりしていた。そこに、「弱い心」というのをさっと突き入れてもらった。これだ、と震えが来るほどの当たりでした。