本当のはじまり
 
1979年の四月に岡山に来ました。寒い四月で、セーターとか持ってきてなかったんで、ふるえました。しばらく、岡山の言葉とか雰囲気になじめなかった。東京でやっていたある映画の仕事から逃げてきたという気持ちもあって、相当落ち込んで、雨の日曜日かな、裏道をとぼとぼ歩いてたって記憶がある。あのときの自分に、〈これからきみは岡山と親しくなって、いつか『岡山の娘』という映画を撮るんだよ〉と言ってあげられたら面白いだろうなって思う。
半年くらいたつまでに、ぼくはいろんな店を知って、一緒に飲みに行く友人たちもできた。書く詩が変わってきた。そしてひとりの岡山の娘に出会って結婚する。立花信三は、そこで奈津子と結婚できなかった。そういう違いがあるんだけど、『岡山の娘』はぼくが岡山に来たあのときからはじまっているとも言える。
 
『急にたどりついてしまう』のあと、すぐに撮りたくて、いくつか構想を練った。1998年の夏から一年、日本をはなれてウェールズに行ったところで気持ちの流れがとぎれるんですが、今回、あのころ構想していたものにつなぎたい気がして、いまから十年前という設定を考えていた時期があります。それだと、話が終わったあとに、十年後のいま、みづきはこうなってるよと示すエピローグがつく。それを考えるのがたのしかった。でも、ひとつには十年前の岡山をどう撮るんだという問題もあって、やめたんです。
あと、2005年からかな、高田亮という若い脚本家・監督と組んで、シナリオを作ってきた。ちゃんと出来たものはないんだけど、そこから始まった流れもあります。
 
いろんなはじまりがあるわけです。
近いところでは、西脇さんがわたしはこういうみづきなんだと見せてくれた瞬間、8月20日からの何日間のどこかに、決定的なはじまりがあったとも言えます。
一方、さかのぼって、遠いはじまりを探ってゆくと、こういうことに思い当たりました。
ぼくが最初に映画に夢中になったのは、中学生のときで、プレスリーの歌入り映画とジェリー・ルイスの底抜けシリーズが大好きだった。
それからドン・シーゲルのような監督によるB級アクション映画。
そういう作品に共通しているのは、スターレット(スターになる一歩手前の、可愛い女優さん、天使的存在)たちが出てくることで、いまの言葉でいえば「萌え」という感じで見たのかな。名前をあげてゆくときりがないんだけど、チューズデイ・ウェルド、ジョアン・ブラックマン、そして日本では1950年代の若尾文子。
ただアイドル的に可愛いというのでも小悪魔的というのでもない、若さがなくなってからも維持される独特のニュアンスが、彼女たちにはあった。少したって、ゴダールの映画もまずヒロインたちの魅力、その撮り方の面白さで見た。そうだったんだといま思います。
『急にたどりついてしまう』も『岡山の娘』も、中心に若い女の子がいるんだけど、どうしてなのかという根をたどると、ひとつにはこういう「はじまり」があったんです。